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社に戻ってからも仕事に追われ、ようやく一息ついた休憩時間。スマホを確認すると、栄子からの長いメールが来ていた。
『昨夜はごめんね。おかげで助かりました。私、今日は体調不良ってことで早退しちゃった』
――マジか。
『明日、会いたいな』
――……マジか。
明日は土曜。休みだ。今日も恐らく早くは帰れないだろう友沢にとって、貴重な休みだった。出来れば一日寝たかった。でも、そういうわけにもいかないだろう。そばにいてほしいと言われたことを思い出す。メールにはその後も仕事の愚痴が連綿とつづられていた。こっちの事情は知らないのだし、仕方がないとは思う。
――でもせめて、俺の都合を聞いてくれよ。
友沢は小さく舌打ちをすると、それでも了承の返事をした。栄子も大変な思いをしたのだし、プライベートで彼氏に会いたい気持ちも分かる。あの時、オフィスで、これが終わったら慰めるからと約束もしていた。
翌日、疲れた体を引きずって栄子の家に向かった友沢は、その夜遅く、自宅に戻った時にはさらにくたびれ果てていた。
栄子は友沢を求めていた。その要求に応えてばかりで、友沢は自分の話をほとんどしなかった。そもそも、嫌なことを話したいわけでもなかったが。それに比べ女という生き物は、嫌なことをすべて吐き出し、ぶちまけ、言いたいことを言えばすっきりする生き物なのか。大変だったねと頭を撫でてやり、キスをして、体を重ねて、栄子はようやく満足したようだった。友沢だって、大好きな栄子と一緒にいれば疲れが取れる、はずだった。そう思ったからこそ、栄子の家に行った。だが、実際には違った。
友沢の支えがほしいと栄子は繰り返した。自分には友沢が必要だと。それは、好きだという言葉に置き換えられていたけれど、その勢いに押されて友沢は何も言えなかった。
――あの映画みたいだったな。
いつか、鈴木と一緒に見た映画のヒロイン。主人公が好きで、どんどん迫って、うんと言わせる。映画では、積極的で魅力的な女性として描かれていたが、鈴木と友沢は違和感を抱いたという感想を話して盛り上がった。
――居酒屋でしゃべってただけなのに、めっちゃ楽しかったな。懐かしいな。もうああいう風には過ごせないのかな。
なんだか無性に、鈴木に会いたくなった。けれど、どさっと布団に倒れこみ、枕を抱えると、押し寄せた眠気が友沢の思考に幕を下ろしていく。
――とにかく、寝よう……。
ふと、目を開けた。友沢は一瞬、自分がどこにいるのか掴めずに首をかしげた。部屋は薄暗い。
「えっ、何時」
床に転がっていたスマホを見つけ、確認すると、日曜の夕方だった。
「俺の、俺の休みがあ……!」
前夜遅く、栄子の家から戻ってすぐ寝たことを思い出す。どうやら日曜の日中ほとんどを睡眠で潰してしまったらしい。体力は回復したものの、もったいない消費の仕方だったという後悔にめまいがした。
翌朝が月曜だなんて信じられない。気が滅入る。気晴らしもしたいし、まずは空腹を黙らせなくてはならない。そう思った友沢は軽くシャワーを浴びると、夜の街に出ることにした。
昨日も一日一緒にいたのに、もう会いたい。栄子は自分がなんでこんなにも涼太を求めているのか分からないでいた。離れていると不安でたまらない。何が不安なのかは分からない。気になる人がいる、と言っていた友沢は、あれから口数が少なくなった。そんな気がするだけかもしれない。仕事も忙しそうだった。そういうのももしかしたら言い訳、何かの口実なのかもしれない。涼太は、気になる人がいると言っていた。別れてもいいような口振りだった。残業に付き合ってくれたのは嬉しかったけど、栄子の気持ちを分かってくれないような感じがした。栄子は不安だった。好きだと言われても、抱かれても、腕がすり抜けていってしまうような感覚。涼太はそこにいる、という感じがしない。
――家まで来ちゃった。
もう夜だけど、寝なくちゃいけないような時間じゃない。少しだけでも一緒に過ごしたかった。明日の朝になれば職場で会えると分かっていたが、あくまで職場だ。会社で涼太のぬくもりを感じることはできない。休みが終わる前に、もう一度会いたかった。昨日の夜、別れる時も素っ気ないように感じたから。栄子は違和感を拭い去りたかった。
「涼太くん、いる?」
玄関は合鍵で開けた。狭い玄関でローヒールのパンプスを脱ぎながら顔を向けると、明るい部屋の中、上半身裸の涼太が女性を組み敷いているのが目に飛び込んでくる。
「……!」
中腰の姿勢のまま、栄子の手から靴が落ちる。涼太の下にいるのは、栄子も知っている顔だった。涼太の上司、営業課長だ。涼太より少し年上の。思わず両手で口を覆い、栄子は金切り声を必死でこらえた。
「その人が、気になる人だったんだ……」
「ちが、うええええ」
これ以上耐えられないといった様子で栄子が身を翻すのと、否定しようとした友沢が吐いたのがほぼ同時だった。
「ちがっ、違うのちょっと待っ……きゃああ!」
仲条も起き上がろうとし、涼太の嘔吐に悲鳴を上げた。友沢は、既に一度吐いてしまい、シャツを脱いで布団へ行くよう促されたもののバランスを崩して仲条の上に倒れこんだ、ということを栄子に説明する暇はなかった。
気づいた時には既に真夜中だった。残されていたメモによると、仲条課長が介抱してくれたようだ。そのメモを手にしたまま、友沢は再び寝てしまった。
週明けから最低な気分。仕事は遅刻ギリギリ。もちろん二日酔い。仕事も山積みだ。まさかとは思ったが、本当に自分が課長に手を出そうとして連れ込んだ可能性もないとはいえない。恐怖と気まずさに押し潰れそうになりながら、課長に謝りに行ったら、それは杞憂だった。せめてもの救いだ。けれど、二度も吐いて、その始末をさせたのは間違いなく、平謝りするしかなかった。夏村さんのことも、早く誤解を解いておいてねと言われたが、昼休みに呼び出しても返事はなく、既読すらつかなかった。
何度もスマホを手に持っては、また置く。何とか説明しようと栄子に送る文章を考えるけれど、嘆息するばかりでどう書けばいいか分からない。
記憶は虫食いだらけ。必死に思いだそうとしても、ぼんやりとした映像の断片が浮遊するばかりで全然繋がらない。栄子が飛び出していった場面は覚えているけれど、何故、自分が課長と一緒に自宅にいたのかも、栄子がどうしてそこにいたのかも分からない。そもそも、課長と飲んでいた記憶もほとんどない。居酒屋でばったり会ったことだけはうっすら思いだしたが、どうやって帰ってきたのか、そもそもどれだけ飲んだのか、何も分からない。昼間は仕事もあったし、課長に詳しい事を聞く時間がなかった。
――分かるのは、栄子が俺と課長のことを誤解したってこと、か。
がっくりと首を垂れる。飲み過ぎた自分の不甲斐なさをぼやいても、今更どうにもならない。
――どう言うかなぁ。『偶然会ったんだよ』。そうだよな、そこは間違いない。で……『良く覚えてないんだけど、飲み過ぎて……』ってこれじゃやっぱ俺が家に連れ込んだ、って思われるよなあ。
どうがんばっても嘘くさい言い訳になってしまう。考えても考えても、何も思いつかない。もうなるようになれ、と勢いで電話をかけてみた。が、呼び出し音がいつまでも無機質に繰り返される。
――出ないのかよ! 言い訳くらいさせろよな。
友沢は大きく息をついた。連絡がつかないんじゃどうにもならない。それでも明日は来る。仕事が待っている。友沢はもう一度、大きなため息をついた。
「お待たせ……鈴木さん、だよね」
鈴木がスマホから目を上げると、つい先ほどまでアプリで会話のやり取りをしていた相手――ヒロが立っていた。
「どうも。初めまして、ではないけど」
「そうだね。でも鈴木さん、思ってたよりずっとイケメン」
屈託のない笑顔は友沢に少し印象が似ている。背格好も、染めた髪も。違う人間だと分かっていても、相手に友沢を重ねてしまう。そんな自分に舌打ちをする。もういい加減にしろと叱責を重ねる。友沢はもう、自分の人生にいない人間だ。いつまでも面影を追うようなことをするのはみっともないし、誰も幸せにならない。
出会い系のアプリは、退屈な夜の寂しさを紛らわせる相手を探すのに便利なものだ。もちろん、相手には当たり外れがあるが、恐らく今日の相手は当たり。文章だけのやり取りはしていたが、実際に会ってみても印象は悪くない。二十代前半で、友沢より二つ三つ若いかと思った。学生か、社会人かは分からない。年の割には大人びてみえる。聞いた年齢が嘘だという可能性も十分にあるが。
着替えるのも面倒で、会社から待ち合わせ場所に直行した。まずは、バーに向かう。鈴木やヒロと同じ種類の人間しか来ない店だ。雑居ビルの二階、奥まったところにある。入りづらい雰囲気の扉を開け、中で酒を二、三杯飲むとくだけた雰囲気になった。鈴木もくつろいで、時には笑顔も見せる。それでも、相手に名前で呼ばれることは拒んだ。それは今回に限らない。鈴木なりの線引きだった。
「この後どうする?」
「二人でゆっくりしたいよね。もし良ければ、鈴木さんのお部屋、見てみたいな」
「いいけど」
「ほんと? 話には聞いてたけど、実際に行けるなんて嬉しい」
鈴木の部屋で一晩を過ごすことに決めた二人が店を出ると、雑居ビルのすぐ近くに、信じられない人間が立っていた。会社でいつも着ている黒コートに革靴。会社用の鞄を片手に下げ、真面目な顔でこちらを見ているのは、友沢だった。
「……こんなところで何を」
「誰なの?」
ヒロが、背の高い鈴木を見上げて尋ねる。
「痴話喧嘩する感じ?」
「違う。単なる職場の後輩」
「単なる、ではないよね。鈴木さんが出てくるまで待ってたんじゃない?」
「ち、違います」
「だって、冷えてるよね」
そう言いながら、ヒロは自然な様子で友沢の手を触った。友沢は反射的にそれを振り払う。鈴木は顔をしかめた。
「そんな風に……失礼だろ」
友沢は、その男がゲイだから嫌だと思ったわけではなかった。気持ち悪いと手を引いたわけではない。けれど、その男に対する感情を説明することはできなかった。何とも言えない気持ちを押し殺し、目線を下げる。
「すみません」
「いいんだ。ノンケさんなんだよね? びっくりさせてごめんなさい」
さみしそうに笑う男を見て、鈴木と同じなんだ、と友沢は思った。この二人は共通の痛みを抱えている。
「何の用だ」
鈴木の目は冷たく、その声も冷酷な響きだった。あの夜、友沢を呼んだ甘い声とは別人のようだ。友沢は息が苦しくなった気がした。
「……その人と、一晩過ごすんですか」
「ああ」
鈴木が即座に肯定する。
「何か文句でもあるのか」
友沢は黙って首を振った。
「文句なんか……。何か言う資格も、権利も、俺にはありませんから」
「じゃあなんなんだ。なんでここにいるんだ。もしかしてお前、俺のことつけてきたのか? 会社からずっと? 店の前で出てくるのを待ってたなんてストーカーもいいとこだ」
言い訳はできなかった。実際に、そうだったから。
「……俺のこと、嫌いになりましたか?」
「なんだそれ」
睨みつけられても、友沢は視線を地面に落としている。声の調子で鈴木がいらついているのは、もちろん分かっていた。だが、考えていることを上手く言葉に出来ない。
「先輩、俺……」
「嫌いになったかって? ああ。なったさ。お前のその顔がムカつくんだよ」
『笑ってる顔が好きなんだよ』。絞り出すようにそう言った鈴木の声を思い出す。好きなのか。ムカつくのか。友沢は黙って目を泳がせた。
「なんなんだよお前……もう、消えろよ。その面を俺に二度と見せるな」
「鈴木さん!」
男が鈴木の背広の袖を引いてたしなめる。その様子に二人の親密さが窺える。胸に何かがせり上がってくる気がして、友沢はその重たい何かをごくりと飲み下した。
「行くぞ」
鈴木はそう言って男の肩を抱き、友沢を置いて歩き出す。
「待って」
男が、鈴木の腕から逃れ、友沢を振り返った。鈴木の眉間にしわが寄る。
「言いたいことがあるなら、言った方が」
「そいつのことはほっとけ。俺と来い」
「うん。でも、ほっとけない」
「それ、俺の嫌いな言葉だって知ってるだろ」
――先輩の何を知ってるんだろう。何を、どこまで?
「駅まで同じ方向だから、一緒に行きましょう。鈴木さん、いい?」
仕方がないというように、鈴木は小さく舌打ちする。そして足早に、二人と距離を取って歩き出した。友沢は気遣う男に頭を下げ、その横に並んだ。
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