一方通行トライアングル

勢いでやってしまって後悔することって、あるだろ?

なんで言っちまったんだって、ほんのちょっと前の自分が理解不能なこと、あるよな?

今の俺が、まさにそれ。冷静沈着が売りのはずなのに、どういうことなんだ。

「……あの、それ本気ですか、鈴木先輩」

「うぅ」

口に出してしまった言葉を消したい。何もなかったことにしたい。頼むから三分ほど巻き戻ってくれないかな。もちろん、そんな方法はない。分かっている。鈴木は自分の失態を思い知って、強く強く後悔していた。

『冗談だって。あるわけないだろ。ちょっと笑わせようと思ってさ。残業も大変そうだし、和ませようかなって』……いや、和むわけがない。

――なに一人でジタバタしてんだ、この人。

友沢は、目の前で天を仰いだり首を傾げたり笑ったり白目むいたりしている「鈴木先輩」を恐る恐る観察した。

深夜のオフィスで残業中、もうそろそろいい加減に終わりたい、帰りたいと思いながら仕事をしていたら、鈴木先輩が差し入れを持って来てくれた。他部署なのに、なんていい人なんだ。いつも世話してくれて優しいな。と思ったところへ、何の脈絡もなく唐突な告白。『好きなんだ、お前が』。そんなことを言われても、脳味噌が理解を拒否する。意味が分からない。相手の気持ちを測りかねて、友沢は嘆息した。

「冗談、ってことでいいすか」

「いや……!」

必死な視線を投げてくる鈴木に、友沢は顔をしかめた。

「マジなんすか」

鈴木は眼鏡の奥で目を泳がせ、それから小さくうなずいた。その頬が少し赤らんでいるようにも見える。夜のオフィスは節電で薄暗く、友沢のデスクのパソコンだけが白く輝いている。だからそれは自分の思い違いかもしれない。そう思っておこう。友沢はもう一度ため息をついた。

「あー……すんません、ちょっと、それはないです。俺、フツーなんで」

普通。その言葉には、お前は普通の人間ではないという意味が含まれ、蔑みの色が足されているように思える。友沢本人に意識はなくとも、鈴木はそう受け取ってしまう。

「そう、だよな」

鈴木の声が掠れる。

「最近、LG……? なんでしたっけ、なんか耳にしたりしますけど、まさかこんな近くにいるとは思いませんでした」

「そんな、珍しい動物みたいに」

「……すんません」

友沢は顔をうつむかせて、首の後ろをかく。居心地の悪そうな友沢を斜め上から見下ろしながら、鈴木はやってしまった自分のミスを痛いほど思い知っていた。ノンケなんだ。この世にノンケの方が多い事くらい知ってはいたけど、その事実はやはり重い。ああ、言わなければ良かった。どんなに後悔しても、時間は戻らない。

「偏見持ったらいけないとか、頭では分かりますけど……」

ぼそり、と友沢が呟いた。さらにきついことを言われそうで身構える。

傷つかないようにしなければ。

高校時代、同級生にカミングアウトしてどん引きされた時の痛みを思い出してしまう。あれは辛かった。『気持ち悪い』『友情信じてたのに嘘ついてたのかよ』『有り得ねえ』次々に繰り出される言葉の羅列に、鈴木は刺し殺されたように思ったものだ。……騙していたつもりはなかった。でも嘘をつかれていたと衝撃を受ける気持ちは分かるし、驚かせたことを申し訳ないと思った。自分が悪いのだ、ゲイには生きている価値すらないのだと思い込んで、浮上するまでにかなりの時間がかかった。いや、今でもその時の傷が治ったとは言えない。恋をするたび臆病さが邪魔をする。

「そ、それほど珍しい存在でもないらしいぞ。言わない人が多いからかなりレアものみたいに思うかもしれないけど、左利きとかAB型とかと同じくらいの割合でいるみたいだよ、俺みたいなやつも。はは」

笑って誤魔化せるものかと思うけれど、少しでも明るい雰囲気にならないかと試みる。

「数とかじゃなくって。同性、愛……? ホモとか、考えられないっすよ」

――駄目だよな。

分かってはいた。ここ数年で認知度も高まり、カミングアウトする人も増え、偏見のない視線も若者を中心に増えてきたと感じていたけれど、そうではない人も当然いる。生理的に無理だと思う人はたくさんいる。分かっている。

友沢は同じ大学の三年後輩で、在学中はほとんど知らなかったけれど、就職活動中にOB訪問したいと連絡が来て、それからの付き合い。同じ本社勤務になり、自分は経営企画課だったが友沢は営業に配属で。友達が多く、明るいあいつにはぴったりだと思った。社内にも知り合いが多く、色々なタイプの人間と満遍なく付き合っているように聞いていた。なんとなくだけれど、そういう偏見とは無縁であると思っていた。でも、そう思いたかっただけ。勝手な思い込みは無残にも打ち砕かれた。

こうして面と向かって拒否されると、やはり、痛い。友沢はこっちを見てさえくれない。「気持ち悪い」、「勘弁してくれ」。そんな言葉が目に見えそうなほどありありと態度に出ている。鋭い痛みが胸を刺す。呼吸が上手く出来ない。

――分かっていたつもりだけど、やっぱり、きついな。

だが、自分の中に渦巻く感情とは裏腹に、鈴木は涼しい顔で小さく笑みさえ浮かべていた。

「そうだよな。ごめんごめん。そういう反応が普通だよ」

気にしないで、とばかりに両の手のひらを見せて、ややおどけたような仕草。友沢はほっとして、小さく息をついた。

――先輩、変態かと思ったけど、そうでもないのかな。良く考えたら、いい人だしな。

OB訪問で知り合ってから、色々なことを教えてもらった。入社してからのことを改めて思い返しても、鈴木は自分に良くしてくれたと思う。それは、好きだったからなのか? それってかなりヤバい。ただ、誰からも先輩の悪い評判はほとんど聞かなかった。聞いた時も、やっかみだなと思うような事案だった。鈴木が友沢にとって、頼りになるいい先輩だったことに間違いはない。……だがもちろん、それとこれとは話が別だ。急に告られて、頭がパニくってる。ホモ? ゲイ? なんだか知らないが、全力でお断りだ。気持ち悪い。正直そう思う。

「すみません、じゃあ俺」

重ったるい沈黙を破り、友沢は帰り支度を始めた。一刻も早くこの場から離れたい。明日からどうすればいいんだよと思いながら、PCの電源を落とし、背広を羽織る。鈴木は腕組みをしたまま机に寄りかかり、うんそうだなとかなんとか、曖昧な言葉を口の中で呟いていた。

「あの、この話なかったことにしますんで」

去り際、友沢は体半分だけ振り返りながら、顔は鈴木に向けずに小さな声で言った。

「じゃ、失礼しま」

そこまで言った時、急に腕を取られて友沢は息を呑んだ。怖かった。瞬間的に、何をされるか、と思った。鈴木に向けた顔が、その恐怖でひきつる。

「……っ」

鈴木の顔もひきつった。そこまで嫌がられると思わなかった。友沢は明らかにのけぞっている。襲われるとでも思っているのだろうか。冗談じゃない。これぞまさに偏見だ。俺は犯罪者じゃないし、好きな相手を襲ったりなんかしない。言いたい言葉が溢れそうになるけれど、それよりも友沢の怯えた顔が、鈴木の胸を突き刺していた。

「ごめん、何もしないって」

慌てて手を離したけれど、じゃあどんなつもりで腕を掴んだのか、自分にも分からなかった。言い訳をしようと思ったけれど、恐らく何の意味もないだろう。けれどこのまま……終わりなのか? このままで? 何も言えないままで? それは嫌だ。ノンケに告白なんて所詮無理だって分かってた。でも、これで友沢が帰ってしまったら、本当にすべて終わってしまう。ただ怯えさせただけで終わりだなんて。

「お、俺に思い出をくれないかな!」

「はぁ?!」

喉からほとばしり出てしまった言葉に、鈴木はまたもや後悔した。なんだよ、思い出って。どうせ振られるならせめて最後に思い出をください……って少女マンガじゃあるまいし、馬鹿か俺は。なんで今日はこんなどうしようもないんだ。言っちゃ駄目なことばかり言っている。

「なかったことにしてくれていい、忘れてくれていい、明日からもう絶対この話しないしそういうの態度に出さないし……だから、最後に、その……」

「いや無理でしょ! いや俺も、これで帰って、全部なかったことにして忘れようって思ったけど、やっぱ無理っすよね、普通に考えて。それに、先輩だって無理っしょ、何もなかったようになんて、無理ですよ。だってやっぱ……ていうか、無理なものは無理だし」

動揺しているからだろう、繰り返される『無理』という言葉。その度に打ちおろされる衝撃。けれど、鈴木は落ちつけと自分に言い聞かせた。冷静になれ。落ちつけ。

学生時代、テニスをやっていた頃、試合で負けそうになっても冷静さを保つのがどれだけ大事か叩きこまれてきた。テニスの試合では、デュースが続いて試合がどんどん延長されることがある。点を入れてもまた取り返され、取っては取られ、自分が二点続けて取るまで終わらない。体力も限界になっていく。けれどそういう時でも耐えて、冷静でいることで、ぎりぎり最後、相手に勝つことが出来る。鈴木はそういうところで、勝負強かった。自負がある。落ちつけ。そうだ、落ちつくんだ。心臓がどくどくと早鐘のように鳴っても、目を開いて、きちんと状況を把握するんだ。

「大丈夫。もう、今後一切、そういう素振りは見せないし、単なる先輩後輩に戻る。やってみせる」

目に力を込める。友沢がうろたえつつも、うなずく。

「ほ、本当っすか。ホントに、戻ってくれるんすね。前みたいに? そこまで言うんだったら……あ、じゃ、じゃあ、まず先に、一週間やってみてくださいよ。もし出来たら、認めますよ」

「えっ」

「だって、今ここで思い出をくれとか言われたって、心の準備も出来ないし。きつい言い方になっちゃいますけど、そもそも俺にメリットないですよね、それ。でも、先輩が普通に戻れるって言うなら、それを証明して見せてくださいよ。マジで出来たら、そしたら……あ、その、成功報酬? ってことで」

「友沢」

「先輩が元通りにやれて、一週間、完全に前と同じようにふるまってくれたら、えーと……何がいいんですかね?」

「そ、それは」

「あ! やらしいこととか、さすがに無理ですから」

本日二度目。焼けた火箸を押しつけられるような痛みを感じて、鈴木はすぐには二の句が継げなかった。

「そんなこと、言わないよ」

「そうですか、そんなら良かったです。えと、じゃあ、なんか考えといてくださいね。……お先に、失礼します」

儀礼的に頭を下げると友沢はそそくさと背を向け、並んだ机の間を抜けて去っていった。鈴木ももはやここに居残る必要はなかったが、友沢の姿が完全に消えたあともしばらくずっと、椅子に腰かけてうなだれていた。

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