一方通行トライアングル

「この間はごめんな」

言いながら、友沢は先日鈴木が最後に言った同じ言葉を思い出していた。あの重さと、今の自分の謝罪とは違う。それでも、友沢は誠実でありたいと背を伸ばした。

「ううん」

栄子は小さく笑みを浮かべ、首を振った。鈴木に頼んだのは正解だった。こうして涼太がきちんと話をしてくれることになって、栄子はほっとしていた。それは同時に、二人の関係が終わってしまうかもしれないという不安も連れてきたが、何も分からない状態ではいたくなかった。

「ちゃんと、話すよ」

咄嗟に別れを予感する。実際にその場面を想像すると胸がきゅっと痛んで、目の奥にじわりと涙が押し迫る。栄子は瞬きをして、改めて口の端を押し上げた。

「ありがと。涼太くんの気持ち、ちゃんと知りたいって思ってたから、嬉しい」

友沢はこくりとうなずくと、唇を濡らし、話しづらそうに始めた。

「えと……まず、最初に言っときたいのは、栄子のことは前と変わらずに大好きだ、ってこと」

予想外の展開に栄子は内心驚いた。好きな人が出来たから別れよう、そう言われると思っていたからだ。好きだと言われて面食らったけれど、まだガードは解けない。覚悟して次の言葉を待つ。

「他に好きな人がいるわけでも、ない」

さらに驚いて、眉が上がった。友沢はそんな栄子に、肩をすくめておどけてみせた。

「大丈夫だよ。……たださ」

きた、と栄子は身構えた。ここからが本番だ。体に力が入って強張る。

「ただ、その、上手く言えないんだけど……確かに、デート中に上の空だったり、他に気になることがあったのは間違いなくて」

「……うん」

栄子がぎごちなくうなずく。友沢は栄子を安心させたくて、大丈夫、と囁いた。

「その人は、俺が栄子と付き合ってるのも知ってるし、邪魔をするつもりもないし、むしろ、気を遣ってくれてる。でも俺はその人にひどいことをしたことがあって、責任を感じてて」

話は、栄子が考えていたようなこととは違う方向に進んでいく。栄子は怪訝な顔で首をかしげた。友沢は、鈴木のことを言わずに、どう説明するか言葉を選んで躊躇っている。

「やっちゃったことはもうしょうがないしさ。俺が責任取れるわけでもないんだけど……だからって全部忘れるってのも難しくて」

あの夜のことは、絶対に忘れられないだろう。

自分がしたことの償いになるならと我慢していた。でもそれは最初だけで。背徳感と、純粋な肉体的な快感とに支配されて、もっと、もっとと求めていた。それを表に出すことはできず、口ではやめてくれと言いながら、本心ではもっと気持ち良くなりたかった。友沢は、鈴木の愛撫を求めた。愛がある必要もない、ただ快感が欲しい本能だけだったかもしれない。それでも間違いなく、あれは栄子に対する裏切りだった。その事実を告げる勇気はなかった。言ったところで栄子を傷つけるだけで、問題が解決するわけでもない。このことは鈴木と自分の問題で、栄子を巻き込みたくはなかった。

「俺の気持ちは変わらない、けど……ごめん」

「何が、ごめんなの……?」

「栄子を嫌な気持ちにさせて、ごめん。もし栄子が望むなら、別れても……」

言いかけた友沢の言葉を、栄子は鋭く遮った。

「何言ってるの? 別れないよ」

「……」

「私、涼太くんが好きだもん。涼太くんも私が好きなんだよね。じゃあなんで別れるの?」

「それは……」

「その人と何があったのかとか、聞きたくないし、話さないで。でも、そばにいて。いてくれるんだよね? ……涼太くん!」

強い語調とは裏腹に、栄子は今にも泣きだしそうだ。栄子には、明らかに支えが必要だった。友沢は両腕を差し伸べ、飛び込んでくる栄子をその胸に抱きしめた。好きだ、と思った。だが同時に、これが本当に好きだという感情なのかどうか疑問に思う気持ちが湧き上がる。

――人を好きになるってどういうことなんだろう。普通に幸せになるって、どういうことなんだ?

今年は、異常気象なんて言葉も言い飽きるほど言った。異常な暑さ、大雨や台風。立冬になってもまだ暖かい陽気。日が落ちればさすがに蒸し暑さは消えるが、昼間は汗ばむほどだ。なのに街は、ハロウィンが終わった瞬間クリスマス商戦に突入した。日本の豊かな四季などもう過去のことなのかもしれない。友沢は暮れかける空を見上げてやれやれと小さく嘆息した。

「男性の課長はいないのか?」

打ち合わせ中に飛び出た言葉に、言われた当人はもちろん、すぐ横に座っていた友沢も目を丸くした。パーテーションで区切られた応接セットの向こうで、相手の社員も顔をしかめている。以前からそういったところはあると思っていたが、まさか女性の課長に担当が変わった挨拶の場でこういう言葉を投げてくるとは思わなかった。友沢はどう対応するべきか頭をフル回転させた。

取引先であるこの小さな会社は、社長の堀が十名ほどの社員とともに長年がんばってきた。取引は今後も丁寧に繋げていきたい。前時代の遺物とも言えるこの社長を傷つけず、けれど毅然として対応するべきだった。掘ははげ上がった頭をつるりとなでる。

「前は男だっただろ? 男の課長」

堀の視線は、友沢に向いている。まるで女性課長の仲条を無視しているかのようだ。担当替えがある前から友沢はこの会社に出入りしていた。だからなのか。それとも、友沢が男だからなのか。けれど友沢は全然嬉しくなかった。

「社長……」

顔をひきつらせまいと友沢が口を開きかけた時、仲条がにこりと笑ってこう言い放った。

「さすが堀社長。男でないと話にならないなんて時代錯誤も甚だしいという今の時代にそれを逆手に取った冗談をおっしゃるなんて」

早口でつらつらと述べた仲条に、堀の顔色がさっと変わった。友沢は息を整え、努めて冷静に続ける。

「社長、手前味噌で申し訳ありませんが、課長の仲条は自慢の上司です。どうぞこれからよろしくお願いいたします」

深々と頭を下げたのは、仲条と友沢、二人同時だった。

「は、はは、そうか、うんまあ……よろしく頼むよ」

堀はひきつった笑顔を浮かべ、仲条とぎごちなく握手を交わした。

「……びっくりしましたよ。堀さんはああいうところありますけど、あんな直球で言ってくるとは思いませんでした。しかし課長、上手い返しでしたね。見習いたいです」

「またそんな、上手いんだから友沢くんは。ま、あんなことで引きさがってられないわよ。まったく、いつまで経ってもこういうの変わらないわね。頭きちゃうわ」

「そうですね。さっきのあれはさすがに引きました」

「でも友沢くんのフォロー、タイミングもばっちりだったわ。ありがとうね」

「すぐに言い返せなくってすみません」

「友沢くんも優秀だからなー。すぐ課長の席も取られちゃうかな」

「課長には教えていただくことがまだまだたくさんありますよ」

「ほんと、上手なんだから」

「いやいや課長の方がお上手ですから」

そう言い合って、二人は声を上げて笑った。

年末はあっという間にやってきた。クリスマスは仕事で栄子と過ごす暇もなかった。街を行き交う人々は年末の帰省や新年の準備で頭がいっぱいらしい。コートの前をかき合わせ、寒々しい空を恨めしそうに見上げて早足で通り過ぎる。

――去年は帰省して……ないか?

あまりに忙しくて、一年前どうしていたか思い出せない。まだあの頃は、栄子と付き合っていなかったっけ。そうだ、栄子は鈴木先輩が好きだったのだ。友沢は小さくため息をついた。母からのメールに、今年も帰れそうにないと返信する。腕時計を見ると、終電もそろそろという時間だった。

「どうしよう終わらないどうしよう」

友沢のすぐ横で必死になっているのは栄子だった。まさかの計算ミスで大量のやり直し作業が出てしまったという。翌朝までにすべて直っていないと大変だと言う栄子に付き合って、オフィスで一緒にいる。泣きついてきた栄子は最初まともな状態ではなかった。友沢が泣いている場合じゃないと言って、なだめ、ようやく作業にかかったけれど、精神的にはやや不安定なままだ。

出来る作業は手伝っているが、友沢に教えるより自分でやる方が早いのだろう、栄子はとにかくパソコンに向かってぶつぶつ呟きながら作業を続けていた。友沢はやることもなく、スマホを見るともなしに眺めていたが、何度目かの、どうしても我慢できないあくびを噛み殺した。

「信じられない! 私がこんなにやってるのにあくびとか!」

「……ごめん」

「もうやだ、絶対終わらないよ、どうしたらいいの?」

「まあ、やるしか」

「分かってるよそんなこと! だからやってるじゃん!」

涙の後に怒りがこみ上げてきたのか、イライラと投げつけられる言葉に、友沢は黙って首をすくめた。こういう時は黙っている方がいい。と言って、何も言わなければ言わないで、また文句を言われるのだけど。

そもそも、ミスは栄子自身のせいであって、泣こうが喚こうがやるしかないのだ。付き合ってやってる彼氏に文句を言うのは筋違いではと思うのだが、今は栄子も大変だろうと友沢は耐えていた。

「あーもう無理〜! ねえどうしよう、ねえ」

――何度目だよ。そんなこと叫んでる暇があったらとにかく作業した方がいいって。

もちろん、口には出さない。友沢は眠い目をしばたいた。

「ちょっと、涼太くんも手伝ってよ!」

「あ、ああ」

「このファイル全部抜いて、こっち印刷したからまとめて差し替えて」

単純労働でもやることがある方がまだましだと、友沢は腰を上げた。

終電もすっかり終わってしまっただろう。打ち込み作業を終えた栄子と友沢は、ファイルし直す作業に追われていた。今すぐ寝ろという体からの信号を無視して続ける。と、友沢のスマホが着信を告げ、突然のことに二人は飛び上がった。

「な、何? こんな時間に」

「さあ……でもこういうむちゃくちゃなことする人は多分」

友沢の予想通り、面倒くさい取引先の社長、堀だった。

「はい、営業部、友沢でございます。……ええ、はい……いやでもそれはちょっと……えっ、あ、はい。ではすぐ確認いたしますので」

こんな時間でも対応するのは営業として当然なんだろうかと疑問に思いながらも、友沢は何とか答えを返した。眉をひそめる栄子に片手でごめんと謝りながら、続けて後輩に電話をかける。

「こんな時間にごめんな。寝てたよな。ごめんごめん。あのさ、堀さんの件だけど頼んであったやつさ……え、送った? 課長にも? いやさっき堀社長から電話あってさ……うん。……あ、そうなんだ。分かった。じゃあ大丈夫なんだな……うん、ありがと。ごめんな、明日よろしく」

「大丈夫?」

「うーん、多分。寝ぼけてたけど。って、それよりあとちょっとじゃん。これ終わったら仮眠しなくちゃ。明日死ぬぜ。ってか今日」

「そうだね。あとちょっと、がんばって!」

――何で俺が励まされてんだよ。

理不尽さを感じながらも、友沢は黙って手を動かした。もう、一刻も早く寝たかった。

「嘘……だろ」

「すみません! 俺、あの時寝ぼけてて……今朝会社に来てから確認したんですけど、課長には送ってたんですけど、堀さんの方に送ってなかったみたいで」

「そんな……大丈夫だって言ったじゃねえか」

友沢は頭を抱えた。後輩のせいには出来ない。電話があった時、会社にいたのだから、自分の部署に戻ってきちんと確認すれば良かった。栄子の手伝いを夜通ししていて頭が回らなかった。後輩が送ったと言ったのを鵜呑みで信じた。寝ぼけていたのは分かっていたのに。自分も頭が朦朧としていたのだ。

いずれにせよ言い訳はしたくない。仲条課長に報告し、彼女は一緒に堀社長のところへ行ってくれた。睡眠不足でひどい顔のまま、ひたすら謝罪し、代替案を二時間かけて了承してもらった。投げつけられた暴言も、夜中に確認してくるなよと言いたかった言葉も、そもそも無茶が過ぎるんだよという思いも、すべてを飲み込んで、友沢は頭を下げ続けた。

「体調やばそうね。大丈夫?」

社に戻る途中、課長が気遣ってくれる。許しがあればこのまま道端でもすぐに眠れると思いながら、友沢は大丈夫ですとうなずいた。

「ありがとうございます。課長にもご迷惑かけてすみません」

「もういいって。責任取るのは上司の仕事なんだから。……でも、良かったんじゃない? 代替案だけど、私的には新しい案の方がいいと思う」

「そうかもしれないですね」

「ま、とにかくまたここからだね。お疲れ様」

にこ、と笑顔を向けた課長に、もう一度頭を下げた。会社に戻って、やることがまだまだある。

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