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少し前を歩く鈴木についていきながら、友沢は男に向き直り、改めて頭を下げた。
「友沢と言います。すみません、その、邪魔をして」
「いえいえ。多分、僕のが邪魔してるんだと思うから」
鈴木に聞こえないよう声をひそめた男は、ヒロと名乗り、鈴木とは今日初めて会ったけれど、以前からアプリ上で色々と話してはいたのだと言った。この人は自分よりずっと鈴木のことを理解しているのだろうと思うと、友沢は胸の奥が泡立ってくる気がした。
「鈴木さん……ずっと悩んでました。さっき友沢さんを見たとき、僕、すぐ分かりましたよ。ああ、この人が相手の人なんだなって。鈴木さんはあんまり話したがらなかったけど、たくさん傷ついてるのは分かります。僕もね、そんな気持ちが分かるから、嫌なことは忘れて楽しく過ごしましょうって話してたんです。でももし、鈴木さんの悩みが解決するなら、僕、その方が嬉しいんですよ。いつかは僕も、って、少しは希望が見える気がするから」
ヒロは、そう言ってにこりと笑った。柔らかい笑顔だった。
「俺……ひどいやつなんです。ほんとに。先輩のこと、何度も、めちゃくちゃ、傷つけてて」
「……」
「今も、何やってんだって思うんですけど……。こんなことしても、余計に先輩を傷つけるって、分かってるのに」
「友沢さん」
「ちょっと色々あって、俺、自分がどうしたいのか分からなくて。気づいたら衝動的に先輩の後をついてきちゃって」
ヒロは、友沢の言葉にじっと耳を傾けていたが、ぽそりと呟いた。
「生きる世界が違うんですよ」
友沢は、はっとして顔を上げた。
「僕は女を好きにはなれません。気持ち悪くって、無理」
はは、と笑ってみせる。
「鈴木さんは多分、女とも付き合えるかもしれないけど……。友沢さんは、男相手にするの、無理なんでしょ?」
問いかけられると、あのことが脳裏に浮かぶ。友沢は鈴木の愛撫を受け入れた。本能で快感がほしかったのか、それとも別の理由があるのか分からないけれど、少なくとも、無理、ではなかった。それ以上のことはどうだろう。想像すると無意識にぞっとする。いや、あのことだって改めて考えればすくみあがってしまうのだ。正直なところ、嫌悪感と拒否感しかない。黙ってうつむく友沢を見て、ヒロは仕方ないとでも言うように肩を軽く叩いた。
「無理だなって思うなら、やめるのが正解ですよ。お互い傷つくだけだしね。憐れむのも、同情するのも、辛いだけです。友沢さんは、彼女さんと、明るい光の中で生きてってください」
穏やかだけれど、吐き捨てるような語調。友沢は改めて自分がひどいことをしていると自覚した。ヒロのことも傷つけてしまった。友沢がやろうとした事は相手を傷つけるばかりで、いいことでもなんでもない。独りよがりの自己満足だ。分かっていた。あの夜、鈴木に帰れと言われた時から。だから、やめようと思っていた。なのに、足が勝手に鈴木をつけた。むしろ、嫌われたかったのかもしれない。その方が自分にとって楽だから? そうだとしたら、なんてひどい人間なんだ。いい年をして、無神経で、浅はかで。馬鹿だ。友沢は唇を噛んだ。
「でもね」
ヒロの言葉にはっと顔を上げる。
「もし鈴木さんが女性だったらどうでした? あるいは、あなたが女だったら」
「それは、どういう……」
「うーん、つまり、あの人があなたの恋愛対象になる性別だったら、好きだったかどうかってこと」
「いや……ちょっと、想像つかないです」
「まあそうでしょうけど。あの人を、人として、ちゃんと見てます?」
その声音は凛として響いた。友沢が答えられず戸惑っていると、ヒロはすっと指をさした。
「もう駅ですね」
「あ、ああそうですね」
気づけば、確かに駅の近くまで来ていた。友沢はぎごちなくうなずき、明るい改札の方へ体の向きを変えた。前方で足を止めた鈴木は、人通りの少ない暗い路地に向いている。自分は明るい世界へ戻り、鈴木はそのまま暗い道を行くのか。
鈴木は何かを言うつもりはないようで、ちらりとこちらに目線を投げただけで躊躇いなく背を向けた。ヒロはそんな鈴木を見ながら、小さく笑った。
「優しくて、不器用な人なんですよ。鈴木さんって」
「あ……そう、ですね」
「僕、鈴木さんの幸せを祈ってます。それと同じくらい、友沢さんの幸せも祈ってます。できれば、僕も幸せになりたいけど」
そう言ったヒロに、友沢はこわばった笑みを作ってみせた。
「今日はすみませんでした。あと……ありがとうございました」
そう言った友沢に会釈を返して、ヒロは鈴木を追って去っていった。別れて駅へ向かった友沢の心中では、問いかけられたヒロの言葉がくるくると渦を巻いていた。
『あの人を、人として、ちゃんと見てます?』
「最近、暗いよね。大丈夫?」
営業の数人で飲みに来た席で、仲条課長が話しかけてきた。友沢は苦笑しながら曖昧にうなずいてみせる。付き合いだと思って飲みには来たけれど、もうしばらく飲み過ぎは勘弁願いたい。
「そういえばさ、経営企画課の鈴木くんって、友沢くんの先輩なんだって?」
唐突に出た名前に、友沢は目を白黒させた。その本当の理由など、仲条に分かりはしない。ええまあと肯定すると、仲条は一人で納得しながらうなずいている。
「いい男よねえ。あ、実は同期なんだけど。私が課長になれるかどうか悩んでた時、後押ししてくれたんだよね。仕事には男も女も関係ないって」
――仕事には、ね。
心の中で思いながら、友沢は仲条に相槌を打った。
「なんか色々あったのかな、よく知らないけど、ここんとこ大変だったみたいなのね。何があったかとか、本人に詳しく聞いたわけじゃないから分からないけど」
恐らく、その「大変だった」ことの原因は友沢だろう。当の本人が目の前にいるとは思いもしない仲条は、鈴木のことを尊敬したと続けた。
「大変そうだねって言っても、別に、って。でもほら、同期だし、なんか私に出来ることあればって言ったら、『自分の仕事は自分できちんとやるから』って言うの。思わず惚れるかと思ったわ」
「すごい、ですね」
「私もちゃんとしなきゃって思ったよ。友沢くんもさ、色々あるかもしれないけど、仕事がんばって。今日は私がおごるから!」
「い、いいですよそんな」
鈴木はきちんとしている。辛くても、仕事をして。それはもちろん社会人として当然のことだったし、友沢もそうだ。ふと、栄子の言葉が脳裏に蘇る。
『もう仕事辛すぎるー。辞めたいな。ていうか、辞める』
栄子と喧嘩するほど元気じゃなかったから、友沢はもう何も言わなかった。
――先輩は、きっと誰よりも傷ついていて。でもそれも誰にも気づかせなくて。
ストーカーまがいのことをした自分にも強い言葉を向けたけれど、それだけだ。もっとひどいことを言われても当然だったのに。本当は泣きたかったかもしれない。でも、平気な顔で。
「友沢くん」
思いに沈んでいた友沢は、課長に呼ばれて慌てて視線を向けた。
「そういえば、私一つ謝らなくちゃいけないんだ」
「え? なんですか」
「こないだ、ほら、友沢くんが酔っぱらっちゃった時」
「あの時は本当に」
「いいのいいの、もう謝らないで。その話をね、つい鈴木くんに話しちゃったんだ。ごめんね」
「はあ」
「彼氏が半裸で女と抱き合ってたら誰でも誤解するよねーって言ってて、でも私が……ごめん、失礼なんだけど、友沢くんに前科があるのかなって言ったのね。前に浮気されてたら疑っても当然じゃない? そしたら鈴木くんが『友沢はそんなやつじゃないから』って。きっぱり。いい先輩だなあって思って」
――先輩……。
心の中がじんわりと温まる。また、ヒロの声が聞こえた。『あの人を、人として、ちゃんと見てます?』
彼女と早く仲直りしなよね、と笑顔で言い残して課長は席を離れていった。励ましてくれたのだろうけれど、今の友沢には少し重たい。栄子に連絡がついたのはあれから数日後。誤解だと繰り返し、何とか分かってもらえはしたけれど、気まずさが残った。ぎくしゃくしたまま、連絡する気にもなれず、忙しさにかまけてそれっきりになっている。栄子は本当に会社を辞めるかもしれない。その後はどうするんだろうか。相談もないし、こちらからも話したいとは思えなくなっていた。
――俺は、どうしたいんだろうなあ。
ざわめく店の天井を見るともなく眺め、友沢は思いを巡らせていた。
営業部には多くの人間がいるが、ここのところ立て続けに体調不良や産休が出て、人手が足りなくなっていた。友沢も、外回りから戻った後、書類を片づけるのに奮闘していたが、まだまだ先が見えないといった状況だ。数人の仲間と残業をこなしながら、友沢はしょぼつく目を強く押した。
「あー! 画面が霞んで見えない」
「……俺もですよ」
「私、肩がやばい」
「今日はもうやめましょ。帰りましょうよ」
「とは言ってもこれ明日の朝までにできてないとまずいからなあ」
ああ、と口々にため息が漏れる。友沢も凝り固まった肩をぐるぐると回し、首を鳴らした。
「とりあえず、夜食買ってきますわ。コンビニでいっすか」
「友沢さん、さすが、気が利くう」
「ありがとうございまーす!」
自分の気分転換にもなるからと笑顔で応えて、友沢は部署を出た。とにかく画面を見てばかりだった目が痛くて仕方ない。ようやく下りてきたエレベーターの扉が開いて、目を押さえたまま乗り込む。こんな時間には誰も乗っていないだろうと思いこんでいたのが、間違いだった。
「……友沢」
「えっ」
目を開けてもよく見えない。瞬きをしてようやく焦点が合ったと思ったら、目の前に立っていたのは鈴木だった。友沢の後ろで扉が閉まる。
「残業か」
「……です。先輩は、帰りですか」
「そう」
「お疲れ様です」
電気仕掛けで下りていく密室に沈黙がこもり、一階までの時間が途方もなく長く感じる。その時、鈴木が口を開いて友沢は飛び上がった。
「この前……」
「は、はい! 先日はいきなりすみませんでした!」
会社だからと思っていたからか、友沢は腰から体を折って謝罪してしまった。鈴木が小さく吹き出す。
「いや、いいよ。俺こそちょっと驚いて……良くない態度だったと思って。ごめんな」
「いえ、そんな」
「まあ、営業なんだから、せめてアポイントくらい取ってくれよ」
冗談めかした言い方にほっとする。
「そうですね、次はちゃんとアポ入れますんで」
友沢が笑ってそう答えると、鈴木の目がすっと冷たくなった。
「次? もう来るなよ」
「え、あ……そうです、よね」
――さっきの笑顔は『演技』か。
背中を冷や汗が流れる。拒絶されているのは分かっていた。当然だ。それでも、と友沢は心を決めた。
「……やっぱり、次回のアポイント取らせて下さい」
「は?」
「話があるんです」
「お前が俺に、今さら何を」
「大事な話です。アポイント、入れさせてください」
鈴木の目をまっすぐに見ると、眼鏡の奥に隠そうとしている感情が見える気がした。友沢の、営業としての勘が告げていた。相手は動揺している。これならいける。落とせる。
「先輩、お願いします」
「……わ、かった。じゃあ、いつ」
「今週の金曜、仕事のあとで。出来れば場所は、先輩の部屋で」
友沢の迫力に押されて、明らかに鈴木はたじろいでいた。友沢は初めて鈴木に勝った、と思った。
「いいですか?」
鈴木はうなずき、一階に着いたエレベーターの扉が開いて二人は解放された。
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