一方通行トライアングル

友沢が鈴木のマンションの部屋に入るのは、三回目だ。最初は、栄子が好きだった時。鈴木に頼んで、栄子をきつく振ってもらった。マンションの下で鈴木が男の肩を抱いて帰宅したのを目撃したこともあった。部屋に上がった二度目は、鈴木に押し倒された。そして、今日が三度目。ガラス製の大きな自動ドアをくぐる友沢の顔に迷いはなかった。

「本当に来たのか」

「はい。お邪魔します」

綺麗に片付いている鈴木の部屋には、前と同じようにジャズピアノが静かに流れていた。ブラウンのおしゃれなスピーカーも、埃のついていないシンプルな棚も、みんな見覚えがある。

「何、飲む?」

鈴木がキッチンカウンターから声をかけてくる。何でもいいですと答え、友沢は壁際のソファに気がついた。そういえば、前はなかった。真新しいベージュのソファは二人掛けで、まるで元からこの部屋用にあつらえてあったかのように馴染んでいた。

「ソファ、買ったんですね」

カップも前と違うような気がしたけれど、鈴木の使うものはどれもシンプルなので確実に違うとは言えなかった。友沢はその白いカップでコーヒーを飲みながら、鈴木と雑談を始めた。相手の様子から、緊張していることが見てとれる。表情に出なくても、友沢には分かる。緊張がほぐれるまで少し時間を取り、関係のない職場の話などをしていた友沢だが、そろそろいいかと頃合いを見て座り直した。

「先輩、仲条さんと同期なんですってね。こないだ課長に聞きました」

「ああ」

「仲条さんが、課長になる時に男も女も関係ないからって先輩が後押ししてくれたって、言ってましたよ。尊敬してるって」

「そんな。たいしたことじゃない」

謙遜する鈴木に、友沢は首を振った。

「大事なことですよね。俺、考え直しましたもん」

鈴木は首を軽くかしげた。友沢は意を決して口を開く。

「先輩、今までたくさん傷つけてすみませんでした。ホント、俺は最低な男です」

「友沢」

「俺、先輩の思いにちゃんと応えたいんです」

「どういう意味だ」

「そういう意味です」

「無理だろ」

顔を背け、鈴木は即座に吐き捨てる。

「男同士だぞ、俺ら」

「男も女も関係ないんでしょ」

「それは仕事の話だ」

「俺は先輩を尊敬してますし」

「なんだ、そういう話か」

「それだけでもないです。俺……先輩が、他のやつを抱くのは嫌です」

「はっ! なんて自分勝手なんだ、お前」

「すみません」

友沢は頭を下げた。自分でも、勝手なことを言っているのは分かっている。いつだって自分のことしか考えてこなかった。良くないと思っても、相手の気持ちを想像するのは難しい。人の気持ちなど、本当に理解するなんて無理だと思ってしまう。じゃあどうすればいいんだ、と堂々巡りの行きつく先は、結局のところ、自分の素直な気持ち、になってしまう。もう仕方ないとばかりに、友沢は開き直っていた。

「えっと。だから、これからはその……俺を」

「お前、を……?」

「俺を抱けばいいっすよ」

「馬鹿か。お前にそんなこと、出来るわけないだろ」

「出来るし!」

鈴木は、自分には友沢を傷つけることが出来ない、という意味で言ったつもりだった。だが友沢は、友沢自身がそんなことを受け入れられるはずがないと言われた、と思ったらしい。食い気味に否定してくる。鈴木の口から呆れた声がこぼれる。

「意地張るなよ。お前は普通の……」

「普通の人間なんていません」

言いかけた鈴木を遮って、友沢は断言した。鈴木は二の句が継げずにいる。

「俺だって、自分勝手だし、変なやつです。男は恋愛対象じゃないのに、それでも、先輩ならいいって思ってるなんて、変でしょ」

鈴木は眼鏡の位置を直して、乾いた唇を湿らせた。何を言い出すのかと思えば、とんでもないことを口にする。それがどういうことか、友沢は何も分かっていない。友沢を諦めさせなくては。そう思うけれど、素直に喜んでしまう自分を抑えるのに必死で、頭が上手く回転しない。友沢相手に平静を装い続けるのは、鈴木には難しかった。せめて一矢報いなくてはと攻撃を繰り出す。

「……夏村さんは、どうするんだよ」

「彼女のことは嫌いになったわけじゃないです。ただ、今はもう連絡取ってなくて。仕事辞めるって言ってたから、別れることになると思います。彼女は若くて、可愛くて、これからも素敵な出会いがあると思います。……でも、先輩は俺じゃなきゃ駄目なんでしょ」

無言が、肯定してしまう。

「ヒロさんは、住む世界が違うって言ってたけど、そんなことない。俺、ここにいます」

「友沢……」

鈴木は胸を抑えた。自分で制することのできない、胸の高鳴り。喜びを感じながら、鈴木は期待させないでくれと叫びそうだった。

――傷つけたくない。傷つきたくない。傷つけたくない。

「先輩は、俺のこと好きだったけど、俺が嫌がると思ってずっと隠してましたね。告白した後も、俺が嫌がることはしなかった。遠慮して、我慢して、それを感じさせまいとして」

「自分が傷つきたくなかっただけだ」

「それもあるかもだけど、俺のこと、本当に大切に思ってくれてた。俺が、栄子を好きになった時は、俺、先輩を利用したのに……最後まで協力してくれました」

「やめろ」

「栄子に相談されて俺の気持ちを確かめたりとか、ホント、先輩がどれだけ傷ついてきたか……。俺は最低のことばっかしてたのに、先輩は全力で優しかった。その気持ちに応えたいんです。もう泣かせません。これからは俺、先輩のことを守ります」

「もうやめてくれ! ……そんな風に、優しいと、な……す、好き、かと、思っちまうだろ。違うから。そういうんじゃないから。お前は、俺のこと傷つけたからやばいって思ってるだけで、それはつまり、罪悪感だから……」

「そうかもしれないです。違うって断言はできない。罪悪感かもしれないし、同情かもしれないっす。でも、いいじゃないっすか」

「良くねえよ」

「もう、うるさいすよ、先輩」

「……は?」

鈴木の目が見開かれる。友沢は、かぶりを振って髪をがしがしとかいた。

「俺が! いいって! 言ってるの! 先輩となら、いいって言ってるんですよ、俺。男は無理だけど、先輩となら試してもいいし、また傷つけるかもしれないけど謝るし、諦めたくないって、言ってるんですよ。なのに、先輩は諦めるんすか」

「友沢お前何言って」

「先輩、俺のこと好きなくせに。分かってますよ。どんな隠したって、忘れられないって、顔見れば、分かっちゃいますから」

「そんな……馬鹿言うな、俺は」

「じゃあ、俺のこと、嫌いですか?」

「そういう聞き方はずるいだろ。……そんな目して」

声が掠れる。躊躇いなく攻め込んでくる友沢に、鈴木は対抗できる術がなくなりつつあることを意識した。

「好きなら、諦めなくていいんです。男同士で変だって言われたって、俺がいいって言ってるんですから、トライしたらいいじゃないですか」

もう手立てがないと思いながら、鈴木は最後の、そして一番大きな抵抗を試みた。

「友沢には、分からないよ、俺みたいなやつの気持ちは」

「分かりませんよ。人の気持ちなんか」

まさかの一刀両断だった。鈴木は狼狽し、口を開けるも言葉が出てこない。

「それでも、理解したいって思ってる。いけないんですか? 俺、先輩のこと、分かりたいです。同情かどうかなんて、もうどうでもいいです。先輩が大切だし……好きです」

「……」

「俺、恋愛対象は女の子だから。また先輩のこと傷つけるかもしれません。ちゃんと理解できる自信もないし、やっぱ嫌だって思っちゃうかもしれない。先に謝っときます!」

「勝手すぎるだろ……」

「その時は、土下座でも何でもします。営業マンですし、そのへんは得意分野です。そんで、またトライします。先輩、知ってます? 相手の会社に仕事もらいたいなら、まず好きになること。失敗しても、諦めないこと。何度でも挑戦すること。営業入ってすぐ、習いました。……俺、先輩のこと、好きなんです。だから努力します。してみたいんです。先輩と」

鈴木は、両手で顔を覆って震えていた。言うべきことはすべて言ったと思い、友沢は満足感を覚えながらソファに体を沈めた。しばらくして立ち上がった鈴木が、気づいた時には既に友沢にのしかかっていた。

「い、いきなり近いっす!」

鈴木の長い指がうろたえる友沢の顎をとらえる。

「せ……っ!」

深い口づけ。短く息をつく瞬間があるかないかで、鈴木の舌が友沢の中に滑り込んだ。ある程度予想していた展開とはいえ、自分の喉が鳴った音に友沢は驚きを隠せなかった。

――こんなに? やべぇよ。

絡んだ舌がぬるりとなぞりながら離れていき、それに続いて唇もゆっくりと離れたが、鈴木の顔は至近距離のままだ。その気配を感じ、友沢はそっと目を開けた。強い視線が注がれている。

「後悔するなよ。……いや、絶対後悔する」

背筋にヒヤリと冷たいものが走る。

「こういう時、普通は後悔させないぞって言うんじゃ」

「普通はな」

「え」

「俺は、普通じゃない。知ってるだろ」

「せんぱ」

最後まで言わせてもらえず、再び口をふさがれる。柔らかなソファに背を押しつけ、鈴木の体重を感じながら、友沢は既に少し後悔していた。

「ちょちょちょちょーっと待ってください、落ちついて先輩」

「好きな相手が俺を受け入れてくれるって言ってるのに落ちついてなんかいられるか」

「そっ、それは……いやでもちょっと待って、ね、先輩待ってください、俺まだそこまでは覚悟できてません!」

「大丈夫。初めてなんだろ、優しくしてやる」

「そういう問題じゃなくて! 物事には順序ってもんがあるじゃないですか、付き合うにしたってデートして、飯食って、それからキスとか……エッチはその後でしょ。先輩、手順を飛ばし過ぎですよぉ」

友沢がそう言うと、鈴木は我に返って息を飲んだ。手のひらで顔をぬぐい、大きく深呼吸をする。そして体を起こし、友沢から離れた。

「そうだよな」

改まった調子で言い、神妙な顔つきになる。

「馬鹿だ、俺。ごめん」

「先輩……」

「つい浮かれて」

――なんですか、その可愛いの。

床に正座し、両手で顔を覆い、鈴木は体を小さくしてうなだれている。こんなに感情が上がったり下がったりしている鈴木を見るのは初めてだった。

「先輩、ね、顔上げてくださいよ」

友沢も床に下り、鈴木の近くに座り込む。顔をのぞきこむと、鈴木がちらっと視線を向けた。そのおでこにちゅっと口づけ、友沢はにっこりと笑った。

「先輩って不器用ですよね。そゆとこ、好きです」

「友沢」

「デート行きましょうよ。また映画行きたいな、俺。そんで飯食って、酒飲んで……楽しみっす」

鈴木の頬が紅潮し、目が見開かれる。

「いいのか、本当に、俺と、その」

「……はい。付き合ってください」

「友沢ぁ」

「ああもぉほら、そんな顔しないで」

泣きそうな顔で崩れ落ちる鈴木を、友沢はぎゅっと抱きとめた。

――この人をもっと知りたい。もっと好きになりたい。

一方通行だったトライアングルは、矢印があっちへ向いたり、こっちへ向いたり。そのうちの二本が向かい合って、はじき出されるのは自分しかない。そのはずだった。自分は、変だから。普通じゃないから。

でも。

「普通」なんかない。誰も、「普通」なんかじゃない。

それ以上に、もうそんなことはどうでもいいとすら思えた。友沢の笑顔がここにある。自分のそばに。鈴木には、それだけで充分だった。

「今日は先輩の色んな顔見られて嬉しいっす」

「俺も、嬉しい」

床に座ったまま、二人は額をくっつけ合って笑った。鈴木は、こんな素直に笑えたのは初めてかもしれないと思った。

<完>   

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