一方通行トライアングル

腕を取られた時、友沢は最初の夜を思い出していた。帰ろうとして引きとめられたあの時は恐怖が勝った。でも今は違う。鈴木が怖いとは思わなかった。強引なその手も、嫌ではなかった。

「来い」

正直、その声にどきっとした。強くて、冷たいようにも聞こえるけれど、低くて艶のある声。眼鏡の奥で、色気がきらめいた気がした。友沢は喉がごくりと鳴った。まるで魔法にかけられたように足が動いて、鈴木の部屋までついていってしまった。

鈴木は、いつでも部屋を綺麗に整えておきたい人間だった。元々物も少なく、生活感はない。お気に入りのスピーカーを起動させて、ムーディになりすぎない落ちついたジャズピアノを流す。

「お前のコーヒーには負けるけど」

新しく買った白いカップを置きながら冗談めかした言葉も、友沢をくつろがせる効果は薄かったようだ。

「すみません、お邪魔しちゃって」

普段のような笑顔もすっかり影をひそめて、友沢はぎごちなく儀礼的に頭を下げた。

「多分、お前が見たのはこの子かな」

スマホのアルバムに入っているのは、半ば無理やり送りつけられた自撮りの写真だった。「僕の顔、忘れないでね、次に会った時なかったら許さないから」と言われて登録され、会う予定もないが、面倒なのでそのまま放ってあったものだ。

「……」

きゅっと力の入った唇が、声なく事実だと肯定する。鈴木は大きく深呼吸すると、ソファに背を預けて上を仰いだ。

――まさか、友沢に見られてたなんてな。

大袈裟でないように気を使いながら、一つ、息をつく。鈴木は唇の片端を上げてちらりと友沢を見た。

「いい時代になったよな。スマホ一つでさ。条件入れて、ちょっとやり取りすれば、可愛い男の子が会いに来てくれる。便利便利」

友沢に口を挟ませないようにと思うと、いつになく早口で饒舌になる。

「便利、だけど。条件が合ってれば恋人になれるかって言ったらそうとも限らないわけだろ。だから色々試してるんだよ。そのうちに見つかるかもしれないと思ってさ。お前が見たのはたまたまその子だったってだけで、今度見ることがあればきっと別の子だろ。その子とはもう会わないかもしれないし、気が向けばまた会うかもしれない。それだけだ」

手のひらを上に向けて、肩をすくめる。

――夏村さんは友沢のことを気にしているってのに、当の友沢は俺のことが気になる? おかしいじゃないか。

以前は鈴木から友沢、栄子、そしてまた鈴木へと向いていた矢印が、逆方向になってしまっている。

――一体、なんなんだこれは。

気になっているというから、全部話した。嘘でも作り話でもない。見かけた男が恋人かどうか、何故友沢が知りたがるのか。鈴木のことが気になって、それでデート中に上の空。それじゃあまるで友沢が鈴木を好きになったかのようだ。

――あるわけない。

そんな期待など、できるはずもない。友沢はノンケだ。ゲイのことを気持ち悪いと思っている。ほんのちっぽけな可能性を信じて傷つくくらいなら、一切の望みを捨てている方がましだ。

友沢は口を引き結んだまま、黙りこくっている。目も合わせない。ゆったりとした音楽がただ流れ落ちていく。コーヒーを飲んでは相手が話すのを待ち、間が持たなくなってはカップにまた口をつける。時間の経過が遅い。耐えきれず、鈴木は口を開いた。

「友沢」

「……」

「夏村さんのこと、どうするんだ」

友沢は黙ったまま目線を床のカーペットに落とした。

「他に誰か好きな人がいるのか」

「そういうんじゃ……」

「夏村さんのことは好きなんだろ」

詰まらずに口にできたけれど、鈴木の胸は締めつけられるように苦しい。もちろん、外見的にはとてもそんな風には見えないだろう。

鈴木に返事を促された友沢は、小さくうなずいた。

「前と変わらず? 別れる気はないってことでいいのか」

再び、無言の肯定。鈴木は大きく吸った息をすべて、勢いよく吐きだした。結局、何も変わらない。

「でも、今のままじゃ夏村さんは不安なんだ。ちゃんと話して、解決しないと駄目だろ」

「そ、っすね」

困ったように眉をしかめ、友沢は言葉を選んでいるのか、じっと動かずにいる。

「……幸せになってくれよ。……普通に」

単なる先輩と後輩の関係を貫くつもりでいたのに、つい口からこぼれてしまったのは、本音だった。

「普通……」

「お互いに好きだと思う相手がいるってことは、幸せなことだろ。分かってるのか? 奇蹟的なことなんだぞ。お前には幸せになってほしい。ただそれだけだ。俺は……俺には無理だから」

友沢が、顔を上げる。それから目をそらし、鈴木は囁くように続けた。

「情報に強いお前のことだから知ってるだろうけど、俺、会議中に泣いたんだ」

恐る恐る視線を戻すと、友沢はバツが悪そうにしている。社内で広まらないわけがないとは思っていたが、その様子を見ると居ても立ってもいられなくなった。穴があったら入りたいとはこういう時に使う言葉なんだろう。

「居酒屋でお前たちに会った時のこと、覚えてるか。あの時、夏村さんにお礼を言われたんだ。振ってくれて感謝してる……って」

――やっぱり。

鈴木が泣いたきっかけはそれじゃないか。友沢がずっと思っていたことだった。胸が痛むと同時に、ようやく分かってすっきりしたような思いもある。友沢は複雑な気持ちで、鈴木の話を聞いていた。

「ショックだったよ。自分でも驚くほど。仕事を休んでも、傷を癒すのは新しい恋だなんてうそぶいても、駄目だった。でもまさか、人前で無意識に涙を流すなんて思わなかった。そんなに我慢してたなんて、自覚がなかった」

少し前の鈴木とは別人のようだ。スマホで相手をとっかえひっかえして試していた、と平気な顔で話していた鈴木とは。息苦しそうに、眉根を寄せ、何度も躊躇いながら、それでも止められないといったように鈴木は切れ切れに続けた。

「我慢してたんだ。考えないようにしようって。お前は幸せなんだからもうそれでいいんだって、思ってた。なのに……夏村さんから連絡があって。もうダメかもしれないとか言われて」

友沢の想像通り、友沢と栄子のことが鈴木に大きなダメージを与えていた。自分のせいだったことを確認した友沢は、自責の念に駆られて唇を噛んだ。

「何で、俺がそんな相談に乗らなきゃいけないんだ。どうして。どうして俺がこんな辛い思いをしなくちゃならない。本当は、壊れればいいって思ってるのに!」

強く目を閉じて吐きだす鈴木を見つめ、友沢は胸が抉られるように痛かった。自分は、好きな人を手に入れるために、鈴木を傷つけた。そして今も、鈴木は傷ついている。

――俺のせいだ。

友沢は苦しさを感じたが、それ以上に苦しいだろう鈴木の胸中を想像すると頭がおかしくなりそうだった。

「すみません、先輩……すみません」

正座になり、頭を下げる。そんなことをしたところで、何も解決はしない。謝罪など求められていない。分かっていても、他に何も思いつかない。

「……お前らが別れたって、俺が友沢と付き合えるわけじゃない。俺じゃ駄目なんだ。だから、夏村さんの言う通りにしようと思った。それがお前を幸せにできる唯一の方法だ、って……。俺は、お前の先輩だから。俺にできることは、これくらいしかないから。だけど……」

絞り出すように紡がれる言葉に、友沢は手のひらで口を覆った。どうしていいか分からない。嗚咽を漏らしてしまいそうだった。こんなにも強い想い。鈴木がどんな気持ちでいるか、友沢は改めて思い知った。

もうこの話はしないという約束を、鈴木はきちんと守っていた。友沢に気づかせないようにしていた。そしてそれは成功していた。なのに。友沢の態度で不安になった栄子が、鈴木に電話をした。鈴木に約束を破らせる結果になってしまった。結局は、友沢のせいだ。

「お前のせいだ」

友沢が思ったのと同時に、鈴木が口にした。一瞬、思考を読まれたかと思ったけれど、そうではないようだった。鈴木は囁くほどの小さな声で続ける。

「俺は、我慢してたんだ」

「先輩」

「なのに。お前の顔、見たら……」

そう言って鈴木は眼鏡の位置を指で戻した。

「一緒にいたら、我慢できなくなっちまった。もう、無理だ」

レンズの奥から鈴木の鋭い視線が突き刺さってくる。脇腹にぞわぞわと震えが走る。

「友沢、お前が悪いんだ」

責めているのに、甘く響く囁き声。鈴木が膝をついて距離を詰めてくる。友沢の脳裏に、何度も見た夢が浮かんだ。求められ、愛され、喜んでいた自分。自らをすべてさらけ出し、与え、また与えられて、絡み合って一つに繋がった体が溶け合う感覚。友沢はごくりと唾を飲みこんだ。

「お前に嫌われたくない。こんなことをして、またお前にあんな顔させたくない。でも」

体重を支えていた腕を、ぐい、と掴まれ、床に押し倒される。夏用の、毛足の短いカーペットがざらりとした。鈴木の手が服を脱がそうとして中へ侵入してくるのを反射的に防ぐ。しかし、鈴木は手を引こうとはしない。

「嫌だよな。気持ち悪いよな。男なんて無理だよな。分かってるよ……!」

そう言いながら、力づくで服を脱がせようとする。

「先輩……! やめ……やめてくださ……っ」

手と手が交差し、攻め、抗い、シャツがぐちゃぐちゃになる。その肩に顔を埋め、鈴木が友沢をきつく抱きしめた。

「好きだ……!」

「せ……」

「お前が、好きだ。どうしようもないくらい」

「……」

「お前を傷つけたくないよ。ひどいことしたくもないし、嫌われたくもない。でも……止められない」

「……」

「……友沢……好きだ」

鈴木の言葉に反応するように、友沢の抵抗する力が少しずつ緩まっていく。鈴木は友沢のシャツを手繰り上げ、はだけた腰に手のひらを這わせた。友沢は顔を背け、その頬を腕で隠すように覆った。体を何度も優しく撫でる。時折、指先に少し力を込める。友沢の体がぴくりと反応する。鈴木は色んな場所に口づけを落とした。

ズボンを脱がせるようとすると、友沢は体を固くしたが、鈴木の下で暴れることはなかった。ファスナーの間に覗くボクサーパンツに口づけ、そのラインにそって愛撫をする。撫で、さすり、キスを繰り返すうちに下着の中が熱を帯び、高まってくるのが分かる。愛しさで胸がいっぱいになり、思い切って引き下ろすと、友沢は体を半分ひねってそこを隠そうとした。加虐趣味はないはずだが、その動作を見てぞくっとしてしまう。鈴木は瞬間、友沢を征服したい気持ちに駆られた。

腕の力で勢いよく膝を押し開ける。息を呑む音がくぐもって聞こえたが、足を閉じようとする力はそこまで強くなかった。抑制がきかず、鈴木は友沢を最後まで導いた。

「せん、ぱ……っ!」

脱力した友沢が、鈴木を見上げている。視線は顎先、胸元、腹、そして下半身へと下りていく。そして膨らみを確認した目が、ぎょっとしたようにそらされた。

その刹那、鈴木の背中にぞっとするほど冷たい何かが下りてきた。

熱が――奪われる。

鈴木の喉から、声が漏れた。

「……殴れよ。俺を、殴れ」

「そ、そんな」

「それぐらいしないと、もっとひどいことされるぞ」

鈴木は友沢にまたがり、見下ろしている。乱れた髪をかきあげた鈴木はなまめかしい。きつい目とかしげた首がぞっとするほど官能的だ。

「殴れません……。先輩のこと傷つけたのは俺です。俺に出来ることなら……なんでも」

友沢が細い声で告げると、鈴木の目が見開かれた。

「ふざけんな」

「え……っ」

「同情で男になんか抱かれるな。友沢はそんなことしたら駄目だ。……くそっ! 俺が、俺なんかがお前を汚したら駄目なんだよっ!」

鈴木はそう言うと、友沢から勢いよく離れた。背を向けて、服を直す。

「もう帰れ」

投げつけられた言葉は冷淡で、同時に、胸が切り裂かれるほど切なかった。

「で、でも。先輩は……」

「うるさい。お前には関係ない」

「か、関係あります! 俺には、責任もあります」

「やめろやめろやめろ! 淋しいだろうから相手してあげますなんて同情されたくない。そんな相手、スマホでいくらでも見つけられるんだよ。俺みたいなやつは、あとくされない相手で紛らわせてりゃいい」

「やめてください、そんなこと言うの」

「お前に、何の権利がある」

それは唐突に、低い、すごむような声だった。

「権利、って」

「俺が何をしても、お前に止める権利なんかない。いいか、お前は俺の後輩……」

「後輩です。そうです、単なる後輩ですよ。そりゃ、俺に先輩の行動をどうこうする権利なんかないですよ。……でも心配なんです。後輩なんですから、先輩を心配するの当たり前でしょうが!」

驚くほど大きな声が出てしまった。一息で言いきった友沢の肩が揺れている。どうしたらいいか悩んだ友沢は、つぅっと視線を泳がせた。

「同情のつもりで言ったんじゃないです。本当です。先輩のこと傷つけたなら謝ります。すみませんでした。ただ俺、このまま先輩のこと放っておくなんて出来ません。俺に何が出来るのか分かりませんけど、でも気になって……考えないように、なんて無理です」

「ふざけんな! あれも無理、これも無理じゃねぇか」

鈴木は珍しく乱暴な言葉遣いで、腹立たしさを隠さなかった。

「ゲイは無理。好きになれない。なのに、ほっとくことも出来ないだ? 勝手なことばっか言いやがって。お前は彼女と幸せになればいいんだよ! 頼むから……頼むからこれ以上、俺に関わらないでくれ」

吐き捨て、座り込んだ鈴木は、乱れた息を整えた。スピーカーは相変わらず場違いなほど穏やかな音律を流している。

「すみません……。俺、身勝手ばかりで」

友沢の声が震えている。鈴木は、乱れた髪をかきあげた。友沢の目が、その汗ばんだ首筋に何故か吸い寄せられてしまう。張りついている濡れた髪が、やけに色っぽく情欲を誘う。思わず見つめていた友沢は、かぶりを振った。

「……帰ります」

黙って眼鏡をかける仕草も、煙草を口にくわえ、火をつける動作も、どうにも艶めいて見える。友沢は自分の目を手でこすった。

「友沢」

のろのろと服を直していた友沢に、ぽつりと鈴木が呟く。

「笑っててくれよ」

「え?」

「お前の……笑ってる顔が好きなんだよ」

鈴木の言葉に、友沢の顔が歪む。

――俺は、そういう顔にさせちまうから。

その言葉は吐きだした煙でかき消す。

嫌悪感、拒否感、そうでなければ同情。自分にはそんな顔しか向けられない。それもこれも自分が「おかしい」せいだ。「変」だから。「普通」でないから。こんな自分が何をどうしても、友沢を嫌な気持ちにさせるばかりだと思うと、胸が潰れそうになる。

鈴木はもう一度、深く、煙を肺の奥底まで吸いこんだ。深呼吸するように、溜めて、勢いよく吐きだす。友沢に向き直ると、その目がゆらゆらと不安げに揺れていた。

「ごめんな」

「謝るのは、俺の方です」

鈴木は黙って首を振った。何を言っても無駄だと思う。してしまった行為を悔いても、取り返しがつかない。鈴木はうっすらと笑みを浮かべ、何も言わないまま、犬を追い払うかのように手を揺らした。

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