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薄暗い部屋。布団が暖かい。人の気配。背中の方。首筋に吐息。そして、低い声。
「友沢」
ゆっくり振り返ると、鈴木が眼鏡を外しているところだった。
「先輩……。〜……?」
何かを聞いている自分の声ははっきりしない。応えるように鈴木が妖艶に笑い、目が優しく細められる。友沢は吸い寄せられるように両腕を鈴木の首に絡め、鈴木は友沢を抱き、柔らかく口づけた。暖かい布団の中、二人は体をぴたりと合わせ、何度も濃密なキスを繰り返す。唇を合わせながら、鈴木の手が友沢の服を手繰り上げ、背中やわき腹をなでる。キスは首筋から鎖骨へ、それからあらわになった胸へ、下腹部へと下りていく。友沢は膝を立て、その間に挟まる鈴木にされるがままになりながら、喜びの声を上げた。
「……っっ!」
ほとんど声にならない声を上げ、目をかっと見開く。勢いよく跳ね起き、布団をはいだ。真っ暗な部屋。ぐしゃぐしゃの布団。汗だくのパジャマ。そして、有り得ない股間の状況。
「う、うっ、嘘だろおおおお……!」
先ぱぁい、と甘い声で行為をねだり、伸ばした手、長い袖の先が萌え袖になっている映像が頭に蘇る。思わず確認すると、半袖のパジャマから出た腕に鳥肌が立っていた。
「やばすぎるってマジ……なんだよ、なんでこんな夢……」
友沢は呟きながら下着を脱ぎ、汚れたところをティッシュで拭った。信じられない。夢を見たこと自体も、その内容も。そして、自分の体の反応も。
「そんな溜まってねえし。先週、栄子んち行ったし。いやほんとに、そんなんじゃねえから」
動揺のせいか、独り言が止まらない。誰に対するでもなく言い訳を繰り返し、その間に脱いだパジャマを洗濯機に突っ込む。新しいTシャツを着て、友沢は再び布団に入り、頭までもぐりこんだ。
鈴木のマンション前で見てしまった、あの映像が目に焼きついて離れない。
「気持ち悪いってんだよ。男同士なんて、マジありえねえ」
口に出してそう言うとすっきりするような気もしたが、同時にものすごく後ろめたさも感じた。
「ないわー。ないない。絶対、無理。あーやだやだ、気持ち悪ぃ」
何度も繰り返して、大きく息を吐く。それから、唇を強く噛んだ。罪悪感が友沢を責める。いや、違う。それだけではない。そう自覚するのは認められないけれど、友沢はどこかで羨ましかったのだ。
鈴木を見上げていた男は嬉しそうで。鈴木は相変わらず無表情で、でも間違いなく会社にいる時とは違う、プライベート感で。そんな風に、鈴木の懐に入り込んでいる男を、友沢は初めて見た。そしてそこにいるのが自分でないことを残念に思った。
――ちげぇっ!
瞬間的に絶対違うと打ち消す。強く否定しながら、あの男に対するむかつきを消し去ることができない。
あの男は恋人だったんだろうか。
そういえば、鈴木のことを、名字にさん付けで呼んでいた。
けれどベッドを汚してもいいかと聞いた。そして鈴木は構わないと答えたのだ。どう考えても体の関係があるんだろう。
恋人? 鈴木は、あんなに友沢のことを好きだと言っていたのに。
いやその話はもう終わったのだ。鈴木が別の人を好きになったっておかしくはない。
友沢はその夜、明るくなるまで布団の中で何度も寝がえりを打っていた。
時は流れる。春の柔らかな風も遠くなり、もはや夏が近かった。じっとりと重い空気がビルの間に淀んでいる。昼間はもちろん、夜になってもすっきりとしない蒸し暑さで、友沢はエアコンの効いた店内に入ってようやく、ふうっと息をついてネクタイを緩めた。
「お待たせ。なんかもう暑いよな」
「そうだね」
席に着くと、待っていた栄子は半袖のワンピースで、会社帰りのリラックスした様子だった。タイトなスカートが下半身のラインを良く見せている。これが着られるのはそれなりの体型でなければならない。それは栄子の自慢でもあったし、友沢にとっても自慢の彼女である理由の一つだ。付き合う前も、付き合ってからも、その足は友沢の心を惹きつけている。なのに今は何故かそれほどドキドキしない。慣れてしまったのか、それとも別のことで頭がいっぱいだからか。
「どしたの?」
「え? ああ、いや別に」
何でもないとかわして、栄子と同じくビールを注文する。
「ごめんね、いつも手近なとこで」
「いいけど……」
言葉とは裏腹に明らかに不満があるといった様子だ。店の選択が、というより、友沢自身に対してだろう。ここのところ栄子より鈴木のことばかり考えていて、それは決して口に出さないことではあったけれど、気持ちが向いていないことはばれていて当たり前だった。デート中に考えごとをして怒らせたり、この間なんかはついにキャンセルしてしまった。仕事終わりに栄子の家でと言っていたのに、土壇場になってどうしても気が向かず、電話で仕事が終わらなくてと嘘をついた。いや、実際に残業して帰ったから嘘とは言い切れないのだけど、それほど急ぐ必要のない作業だったのでやましさがある。
「……で、行っていい?」
――は? ……あ、やべえ。
しまった、と友沢は自分の失態を思い知った。またやってしまった。栄子の話を聞いていなかったから、何に行く許可を求められているのか分からない。だけど、自分にそれを拒否する資格なんかないだろう。
「もちろん。楽しんできなよ」
にっこりと笑って寛容に言ったつもりだったけれど、栄子の目が冷たく凍っていく。何を間違えたのだろうか。いいと言ったのが間違いだったのか。焦りを隠そうと軽く唇を湿らせ、どういう言葉を紡ごうかと頭をフル回転させる。頬が痙攣《けいれん》してぴくっとはねた。友沢が何かを言う前に、栄子が口を開く。
「分かった。行くね。楽しんでくる。じゃ、来週の金曜はデートキャンセルね」
そもそもその日にデートの予定が入っていたかも、すぐには出てこない。スマホの手帳で確認すると、確かにその予定になっている。予定変更、栄子は別の用事、と書き加えて、栄子の声が固いことには気づかなかった振りをした。
「今日はこの後、どうする?」
これ以上余計なことを言って、分かってないことを晒すこともない。話題を変えようと、友沢は笑顔を作る。が、栄子は目を伏せ、椅子を引いて立ち上がった。置いてあったハンドバッグを肩にかける。
「ごめん。今日は帰る」
「え、あ、ああ……いいけど。ごめん、なんか怒らせちゃっ……」
「怒ってないし」
どう見ても怒っている顔で、会話の続きを拒否する。友沢は口をつぐむしかなかった。栄子は椅子の背に置いた手を残したまま、友沢に背を向け、呟いた。
「涼太くん」
「……うん?」
「私のこと、好き?」
「好きだよ……もちろん」
友沢の声が掠れたのは単なる偶然だったし、そこに他意はなかった。栄子を怒らせたことによって緊張していたのかもしれない。喉が渇いたように思ってはいた。だからかもしれない。決して、否定する気持ちはなかった。友沢は、栄子が好きだった。間違いなく。
「そっか。私も、好きだよ」
振り向いた栄子は、どこか淋しそうな笑顔を見せて、言った。
「来週の金曜、私、友達に誘われて合コン行くの」
「え」
やっぱり聞いてなかったか、とでも言いたげに、栄子は嘆息して天井を見上げた。それから小さく笑う。
「素敵な人がいたら、困っちゃうね」
「……」
「また連絡するね」
友沢の言葉を待たず、栄子は店を出ていく。止めるべきだったのだろう。合コンに誘われたけど行っていい? と聞かれたときも。そして、今も。友沢は自分の犯した失敗を悔いたが、もう取り返しはつかない。栄子はいなくなった。
――やばいな。
額に手を当てて、舌を打つ。自分に呆れてしまう。
栄子の話に集中できないのは、鈴木のことが気になっているからだ。見てしまった映像が消えない。あれから何度か、夢に見ている。その度に熱くなる体を持て余してもいる。このままではどうしようもない。
栄子は友沢のことが好きだと言ったし、また連絡すると言った。あれが言葉通りなら、まだ望みはある。かなり危険な状況ではあるけれど、打つ手はあるだろう。友沢は一人、ビールを飲みながら考えに沈んでいった。
栄子が合コンだと言っていた金曜日。友沢がまったく想定していなかったことが起きた。
『今日、空いてるはずだよな』
スマホを手に、鈴木から送られてきた文面を見つめる。
――なんで先輩が知ってんだ?
栄子が言ったとしか考えられない。でもその理由までは分からない。首をひねりながらも了承の返信をして、友沢は仕事終わりに指定された店へと向かった。
「相談受けたんだよ」
久しぶり、というお決まりの挨拶もそこそこに、鈴木は本題を切り出した。金曜九時のアイリッシュパブ。ざわついた店内は、多くの客で賑わっている。背の高いスツールに腰かけた鈴木のすらりとした長い脚が羨ましい。栄子とは全然違う、男の足。スラックスの中のその足は、テニスで鍛えた筋肉がついて、けれど太すぎはしないしなやかな足だ。友沢はそれを知っている。
――馬鹿じゃねぇの、何考えてんだ、俺。
友沢はまばたきをして目をそらし、鈴木が揺らす水割りの氷を見つめ直した。「栄子が、鈴木先輩に何を」
本当に聞きたいことは別にあるけれど、それを聞くには空けたグラスの数が足りない。場所的にも無理だ。周りに人が多すぎる。どうしてこういう店を鈴木が選んだのか。二人きりになるのを避けたんじゃないか。それは推測に過ぎなかったけれど、恐らく当たっているのだろうと思えた。
鈴木にとって、一番聞きたくない人間の声。
もう友沢の心が自分にはないのかもしれないと、栄子が電話で相談してきたのはしばらく前のことだった。
『鈴木さんにしか、相談できないんです。お願いします』
「俺には関係ないことだと思うけど」
『鈴木さんは、私が涼太くんと付き合うきっかけくれたじゃないですか』
――あげたくてあげたわけじゃない。
『涼太くんの気持ちが知りたいんです。本当に、今でも私が好きなのか。もしかしたら……他に誰か好きな人がいるのかもしれない』
「そんなことないと思うけど」
『だって! 私が合コン行くって言ってるのに、楽しんできてって言ったんですよ? どうでもいいんですよ、私のこと』
「なんかの間違いだろ。あいつはそんなやつじゃない」
『そうですよね。私もそうだって思いたいです。でも、ここんとこ変なんです、彼。私の話も上の空だし、デートドタキャンされたりもしてるし……分からないんです、彼の気持ちが。お願いします。来週の金曜日。その日は彼、空いてるはずなんです。鈴木さん、彼の気持ちを引き出してください。仲のいい後輩ですよね。お願いします!』
会議中、無自覚に涙を流してしまった翌日、仕事中に短いやり取りをした。その時も平然とした顔でいるのに相当の集中力を要したし、友沢といると神経が高ぶって辛い。だから友沢のことは避けてきたし、考えないよう懸命に努力してきた。なのに、二人きりで、しかも気持ちを聞きだせなどという高度な指令をこなす羽目に陥っている。
――ひどい話だ。
今日の友沢は仕事帰りだ。いつもと同じ、スーツ姿。疲れてしまいそうなほどの人いきれでいっぱいの店内には色んな人間がいるが、友沢と似たような恰好の男もたくさんいる。でも、友沢は特別だ。きちんと整えられた髪も、くるりとした可愛い目も、小さな耳たぶも、ほくろの一つ一つまで、心をとらえて離さない魅力に溢れている。何より、その表情が鈴木は好きだった。振られてなお、胸がこんなにときめくなんて、と自嘲する。今の鈴木に出来ることは、好きな人の幸せを祈るしかない。自分にとっては恋敵であっても、友沢にとっては大切な恋人だ。栄子の期待を裏切ることは、鈴木にはできなかった。
「夏村さん、心配してたぞ。自分の他に好きな人が出来たのかも、って」
「はあ?! ちっ、違いますよ」
「じゃあどうしてデート中に上の空なんだ」
「それは……って、栄子がそんなこと話したんですか? いつ?」
「こないだ電話してきた時に」
「ええー、なんだよそれ。参ったな」
友沢はわしわしと髪に両手の指を突っ込んでかき乱している。
「何か気になることがあるのか?」
「そっ……それは」
「それは?」
「いや、別に、何もないですよ……」
言い淀む友沢を不審に思う。明らかに何かを隠している。栄子が不安になるのも無理はないだろう。友沢は、口を開きそうにない。目を泳がせて、うつむいている。
「俺には言いにくいか」
ちらりと投げてくる視線と表情から、鈴木は自分の言った言葉が的を射ていると確信した。もしかしたら、自分が関係しているのかもしれない。だがその内容までは計り知れなかった。騒然とした店で、二人には賑やかな金曜の夜の雰囲気が似つかわしくなかった。
「あの……俺も、先輩に聞きたいことが……あって」
言いだそうかどうしようか、かなり長い間悩んだ末、友沢は思い切って口火を切った。
「俺に?」
「先輩、その……あの、恋人できました?」
ものすごく聞きにくい質問だった。あの男は誰なんだ、あなたとどういう関係なんだ、と、詰め寄るわけにはいかない。それじゃあまるで自分が焼きもちを焼いているようだ。そうじゃない。そうじゃないんだと心の中でかぶりを振る。恋人が出来たなら祝福したいし、はっきりすれば自分も変な夢を見なくて済むようになるんじゃないかと期待するだけだ。
「なんで」
鈴木の低い声に、疑問と少しの怒りが滲んでいる気がした。
「いやあの、この前ちょっと先輩のマンションの近くにいたことがあって……ですね。えっと……その時、先輩がその、恋人っぽい人と歩いてるのを見たもんで」
どうにも歯切れが悪い。でももうここまで口に出してしまったのだから、やめるわけにはいかなかった。
「か、肩を抱いてたから、その、恋人なのかなって思って、俺」
「違うよ」
えっ、と顔を上げれば、眼鏡の向こうで視線がそらされた。
「それはネットで見つけた相手。どの子か分からないけど、誰にせよ、いわゆる一晩だけのお相手ってやつだよ」
「そ……」
友沢は、何と言えばいいのか分からなかった。その可能性を考えなかったわけじゃない。でも、その答えを期待してはいなかった。いっそ、あれは愛しい恋人だと言ってほしかったくらいだ。それなら納得できた。でも、そんな、体だけの関係だと、愛なんかないのだというような口調で冷たく言い放ってほしくはなかった。
「俺のことなんかどうでもいいだろ」
「……」
グラスに添えた指先が震えているのを見つめるばかりで、友沢の口からは言葉が出てこない。鈴木が見つめてくる気配を感じたが、友沢は目を泳がせるばかりで何も言えない。恋人じゃないと言われて、なのにこんな衝撃を受けるなんて、自分が何を考えているのか、友沢には分からなかった。栄子のことは、もうすっかり頭になかった。
「場所を変えよう」
「え」
「来い」
スツールから離れ、鈴木が首をくいと回す。躊躇っていると、黙って腕を取られた。見上げた鈴木は熱っぽく友沢を見つめている。
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