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大の男が、突然意味もなく泣くだろうか。それも会社で、会議中に? 何の前触れもなく?
――おかしいよな。
何度考えても分からない。突然泣いたなんて、友沢にはその状況がどうにもうまく理解できなかった。感情表現が豊かではない鈴木が泣いているところは、それ自体想像しにくい。
――普通、泣かないよなあ。
男は外で泣かないものだ。そんな風にくくることもないかもしれない。でも、と友沢は首をかしげる。男が泣いている場面は、そうそう思いつかない。映画で感動したとか、酒に酔ったとか、そういうことなしに、仕事中に涙を流すなんてことは考えられなかった。しかも本人は無意識だったらしいと聞いた。仕事で何か、よほど悔しかったとか、そういうことでもあったんだろうか。
――何があったんだよ。
唇をかむ。考えたって分かるわけもないことを、会社から帰ってからというもの、もうずっと考えている。
先々週。栄子と飲みに行った居酒屋で、偶然、先輩と出くわした。ちゃんと顔を合わせたのは、栄子を振ってもらった時以来だった。その時、栄子がしゃがみ込んで、何かを囁いていた。それと関係しているのだろうか。しかし、泣いたのはその時から何日かが過ぎている。無関係かもしれない。
――俺が気にしたってしょうがないんだ。
時折我に返り、そう思ってうなずくのだが、またしばらくすると考えてしまっている。
――先輩に聞いてみようか。いや……駄目だよな。
聞けるわけがないと思った。そもそも、理由が分かったところでどうにもならない。何もしようがない。もはや友沢は「単なる後輩」なのだから。
でも、もし。
栄子が何かひどいことを言ったりして、傷ついたのだとしたら。友沢にも責任があるのではと思える。
――だからって、責任取れねえだろ……。
脳内で二人の自分が言い争う。友沢は頭を抱えた。
――気にしない気にしない!
そう思いながら、どうしても気になる。気になって仕方がない。友沢は思考を追い出そうとして頭を振り、わしゃわしゃと髪をかきむしった。
「……涼太くん、眠そうだね」
そんなことないと言い返したが、腫れぼったくなっている目を見れば寝不足なことは一目瞭然だった。二週間ぶりのデートだというのに、友沢は大きなあくびをかみ殺している。
「大丈夫? 仕事忙しかったの?」
「いやそんなことない。平気だよ」
ちょっとお洒落なダイニングバーに誘ったのは友沢の方だ。金曜の夜。明日も明後日も休みで、食事の後は彼女の家でゆっくりお泊まりデートという予定になっていた。
――でもこれじゃ何もしない内に寝ちゃいそう……。
もう一度出そうになったあくびを手で隠し、友沢は「大丈夫」と繰り返した。
久々に会って話すことがたくさんあるのか、栄子は食事中もずっとしゃべっていた。友沢はほとんど聞き役に徹している。仕事の愚痴、上司や同僚の話、新しく買った服のことなど、脈絡もなく、取りとめもなく、続いていく。友沢はそれを聞きながら、いつしか別のことに頭を支配されていた。
――なんでなんだろう……。
「……〜なの?」
「え?」
さざ波のように聞こえていた栄子の声が急に尖ったものに変わり、友沢を現実に引き戻す。
「聞いてなかったでしょ、今」
ぷるんと潤ったくちびるを可愛く尖らせている栄子は、そこまで怒っているようには見えない。だが、言い訳は通用しないだろう。
「ごめん。ちょっと寝不足でさ」
「やっぱり。眠いんだろうと思った。無理しなくていいのに……もう帰る?」
「いやでもまだデザート来るよね。大丈夫、起きてるから」
「そんな調子じゃ、うち来てもすぐ寝ちゃうね、涼太くん」
くすくすと笑う栄子は可愛い。見た目も可愛いけれど、頑張り屋さんな内面も好きだ。最初は一目惚れに近い始まりだった。鈴木先輩しか見てなかった彼女を、先輩に助けてもらって振り向かせた。振られた弱みにつけこんだことは、後ろめたい。でも結局、男が好きな先輩とは両想いになれるわけがないのだから同じことだ。失恋の傷も友沢が癒してやった。最終的にこうして幸せな恋人同士になったのだから、問題はないと思う。鈴木には悪いけれど、友沢だってその想いに応えられるわけはないのだから、それも仕方ないことだ。
仕方ない。仕方ないと言えば、鈴木のことだ。これも考えても仕方ないと分かっているのだが、何度振り払っても考えてしまう。デートしている相手の話をそっちのけにしてしまうほどに。
「……あのさ」
「なぁに?」
「こないだ、鈴木先輩に会ったじゃん」
「えー? ……ああ、居酒屋さんでね。でも、結構前だよね。それが?」
思いだせないような口ぶりだった栄子は、ようやく思いだして、首をかしげた。
「あの時さ、先輩になんか言ってたじゃん」
「それ、お店でも聞いてたよね」
無邪気に笑う栄子に、友沢は畳みかけるように聞いてしまう。
「あの時もさ、何でもないって言ってたけど、なんて言ったのかなってどうしても気になってさ」
「何でそんな気になるの? 別にいいじゃん、なんでも。今更、鈴木さんに焼きもち?」
「違うって」
「焼きもちでも嬉しいけど。もう、鈴木さんのことは好きとかそういうんじゃないからね? 安心して?」
「分かってるよ。そうじゃなくてさ……」
「何〜?」
「鈴木先輩さ、なんか、その」
社内で泣いたという噂を口にしたくはなかった。もちろん、栄子が知っている可能性はある。あの子たちがあのまま口をつぐむとは到底思えない。女子のうわさが広まるのは早い。でも、知らないかもしれないのにわざわざ教えることになったらと思うと、躊躇ってしまう。言い淀む友沢に若干いらついたのか、栄子はグラスのカクテルを口に含んで友沢を軽くにらんだ。
「鈴木さんのことはもういいじゃん。過去の人だよ」
「過去の人、って。そんな言い方すんなよ」
「まあ言い方は悪いかもだけどさ、実際、もう私らには関係ない人じゃん?」
「それは……そう、だけどさ」
「なんでそんなに気にするの? 鈴木さんに何か言われたの?」
「いや、そういうんじゃなくて。ただ、ちょっと気になって。なんていうかさ、ちょっと、先輩が気にしてるんじゃないかなって、俺が勝手に思ってるだけなんだけど」
「先輩思いだね、涼太くん。鈴木さんには、ありがとうみたいなこと言っただけだと思うよ。私ももうそんなにちゃんと覚えてない。……ねえ、デート中だよ? 鈴木さんの話はもういいよね」
「……うん。ごめんな」
栄子の言う通りだ。デート中にしつこく話すようなことじゃなかった。これ以上話すのはやめて、栄子の機嫌を直さないと。そう思い、実際に努力もした友沢だったが、それでもなお鈴木のことが頭から消えることはなかった。
友沢たちの会社は、巨大企業というわけでもないが、それなりの規模ではあった。友沢の勤めている本社には複数フロアがあり、部署も多い。意識して会おうと思わなければ、鈴木と顔を合わせる機会は滅多になかった。告白事件より前は、数ヶ月に一度くらい飲みに行ったりもしたものだが、今はもうそんなこともない。鈴木の動向が気になって仕方ないものの、用もないのにわざわざ別フロアに行くのもおかしいし、そもそも仕事中に泣いたのはどうして、なんて聞けない。聞いたところで友沢に何が出来るわけでもない。思考は同じところを堂々巡りだ。
外回りが長引き、すっかり遅くなって職場に戻ってきた友沢が、鈴木を見かけたのは偶然だった。遭遇するチャンスが少ない中、これは逃せないと思った友沢は、鈴木とその部下であろう社員とが話している会話にそれとなく耳を傾けた。
「鈴木さん、本当に行かないんですか」
「ああ、ごめんな、久々の飲み会なのに」
「いえ……」
「斉藤たち、もう先に行ってるんだろ? 俺は帰ったって伝えといて」
「はい。じゃあ、すみません、失礼します」
社交辞令的に手を振る鈴木の姿は、いつもと違いはない。体調が悪いようには見えない。何か用事があるのか。行くところがあるのか。友沢の頭に、栄子から聞いた話がよみがえった。
「休んでる?」
「そ」
短く答えた栄子が、ストローをくわえてアイスコーヒーを飲む。
「どこで聞いたの」
「経理だもん。給与計算見れば分かるよ。……ほら、涼太くん、なんか気にしてたじゃん? んでちょっと見てみたの。鈴木さん、先月は有給かなり使って休んでるみたい」
「マジで?」
こくこくとうなずき、栄子は上目づかいで友沢を見た。
「心配?」
「え、ああ……まあ、別に、それほどじゃないけど」
「先輩想いだねー、ホントに」
栄子は気のない返事で、友沢はそれ以上突っ込まれなくて良かったと胸をなでおろした。
何日も休んでいるということだったけれど、体調が悪いという話は聞かない。けれど今日の飲み会には行かないという。こうなると何か別の用事があるとしか思えなかった。気になりだすとどうしようもない。友沢は残っていた仕事を急いで片付けるべく、自分のデスクへと駆け戻った。
――いる、かな。
八階建てのマンションの、鈴木の部屋を見上げる。以前、栄子を連れて訪れたマンションだ。あの時は、栄子が鈴木を好きだと言っていて、諦めてもらうために彼女をきっぱり振ってくれないかと鈴木に頼んだ。鈴木がどんな思いをしたのか、友沢には計り知れない。けれど、傷ついたのは間違いないだろう。どうしようもないじゃないか、仕方ない事だったんだ、と言い聞かせても、消えない罪悪感がずっとある。その部屋を、友沢は今また見上げていた。
電気はついていない。腕時計で確認するが、まだ寝たとは思えない時間だ。やはり何か用事があって出かけて、まだ帰っていないということだろうか。鈴木がどこへ行って、何をしているのか、友沢には分からない。誰と……? そこまで考えて、デートという単語が頭にひらめく。
――いやいや、そうとは限らないし。
打ち消すように首を横に振る。
――何やってんだろなあ、俺。
どうしていいか分からないまま、マンションの前にしばらく立っていた友沢は、やがてため息をひとつついた。
――帰ろ。
もう一度、ちらりと部屋を見上げてみる。
「……」
小さく嘆息して歩き出した友沢の目に、寄り添った二人の人影が飛び込んできた。二人はマンション前に立っている友沢の方へ向かってくる。思わずマンションの壁と街路樹の間に身を隠した。ここで何をしてるんだと言われたら答えられない。
――先輩、だよな。
街路樹の枝の隙間からこっそり顔を出す。夜に遠目で良く見えないが、鈴木はいつもとは明らかに雰囲気が違う。洒落たダークスーツ。先のとがった革靴は光っている。会社用ではない髪のセット。何より、眼鏡をかけていない。コンタクトだろうか。酔っているのか、頬に赤みがさし、そのまなざしには色気が漂う。
――ひええ。
鈴木が肩を抱いているのが男だと分かって、友沢は息を飲んだ。心臓が飛び出るかと思った。思わず口を抑えてしゃがみ込む。同性愛者だと知っていたはずなのに、その映像による衝撃は、友沢の想像をはるかに超えていた。
男は鈴木より頭一つ小さく、どことなく女性的な感じがする。オーバーサイズのセーターは萌え袖。細身のパンツがぴったりと足の線を浮かび上がらせている。
――イケメンってわけじゃねえな。
友沢は、自分が蔑みの感情を持っていることに気づいた。男は、鈴木を見上げて嬉しそうにじゃれついている。二人はやがて、気配を消そうと必死になっている友沢の近くを通り過ぎた。
「鈴木さんのベッドって大きい? 僕、汚したらごめんね」
「構わないよ」
その会話に、全身が総毛だった。そういうこと、なのだ。鈴木はその男を部屋に連れていき、そして二人はそういう関係で、ベッドを汚すようなことをするのだ。これから。あの部屋のベッドで。友沢はぞわぞわと鳥肌が立つのを止められなかった。嫌悪感の理由がなんなのかは、友沢自身にも分からない。ただ、震えた。
二人がいなくなってからもしばらくの間、友沢は街路樹の茂みの中に座り込んでいた。構わないと言った鈴木の声を思い出す。一瞬、鈴木の声とは思えなかった。感情がこもってないような、どことなく突き放すような、冷たい声。なのに艶があり、柔らかい。やがて思い出す。その声を。友沢も、聞いたことがあると。映画を見に行った帰り、鈴木がマンションに来て。その帰り際、鈴木にキスされたのだ。ありがとう、と言われて。その声が、今の声と似ていた気がした。
「……!」
叫びだしたくなるのを必死で留め、友沢はふらつきながら立ちあがった。無意識に、帰途につく。家に帰るまでの記憶は、ぽっかりと抜け落ちてしまっていた。
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