一方通行トライアングル

プラスの感情が何一つ持てない。はなから選ばれるわけなんてないと痛いほど分かっていながら、それでも選ばれなかった辛さが鈴木を襲い続ける。

唯一、喜びを感じることと言えば、友沢が幸せだろうと思う事だけだった。恋人が出来てすぐの頃はとにかく幸せで仕方ない状態になるものだから。友沢は、栄子との時間を満喫しているだろう。友沢が幸せなのは、嬉しい。時折見かける程度で推測するしかないのが切ないが、それでも友沢が幸せで、笑っているのならいい。

栄子を見かけてしまう方が辛い。その度に、切り裂かれるような痛みが体中に走る。栄子には友沢がとびきりの笑顔を向けるのだと思うと、憎らしいより悲しくて、忌々しいより辛くて、鈴木はめまいや吐き気を覚えるのだった。

そんな思いを振り切るために、鈴木は仕事に没頭した。なるべく二人のことは考えないように努める。周囲の人間は、そんな鈴木の苦悩など知らぬまま。時は流れ、季節はうつろっていく。

新年度、新入社員の歓迎会があちらこちらで行われる季節。新人はもちろん、その対応をしなくてはならない同僚や上司たちも神経をすり減らす時期だ。新人を歓迎する名目で行われる飲み会は、それ以外の人の気を晴らす目的も含まれる。

「かんぱーい!」

「すみません、焼き鳥まだ来てないんですけど!」

「あ、それこっちこっち」

「堅苦しいのはもういいから、ね。飲もう飲もう」

「僕、飲めなくて、すみません」

「えーっ」

「ウーロンにしとく? 俺、ビール追加で!」

いくつもの声が飛び交う賑やかな居酒屋で、鈴木たちも他の客と同じように大きな座卓を囲んでいた。一人入った新人は下戸だがこういった場は嫌いじゃないらしく、盛り上げますからと熱っぽく口にした。

「あれっ」

すぐ横の廊下を歩いていた、別の客らしき人物が大きな声を出し、鈴木は思わず彼らを見上げた。視線の先には……友沢がいた。すぐ横に、栄子。

「なになに、二人ー! 付き合ってんのー?」

「あ、はは、まあ……」

沸き立つようなからかいの問いに動揺したのか、友沢はひきつったような笑顔を貼りつかせている。

――別に、なんてことない。会社の近場の飲み屋だ、こういうことだってあって当然。分かってたことだ。そんな、子供じゃないさ。

表向き、笑みを浮かべて挨拶する余裕すら鈴木にはある。自分に言い聞かせる言葉と裏腹に、胸はぎりぎりと絞めつけられるようだ。それには気づかない振りで対抗する。友沢は栄子に無言で早く行こうと促している。だが、栄子は歩きださなかった。

「あの時は、ありがとうございました」

そう言いながら、鈴木の近くにしゃがみこんだ。甘い香水が鼻につく。

「えー課長、知り合いなんですかぁ? 付き合ってるなんて知ってました?」

部下の斉藤は相変わらずお節介でうっとおしい。さらりとかわせばいいのだろうが、さすがにそこまでは余裕がない。曖昧にうなずいていると、栄子が屈託ない笑顔を見せて、言った。

「おかげで私、今、幸せです」

騒がしい店内で、それはきっと鈴木にしか聞こえなかっただろう。すぐ横に立っている友沢にも、きっと聞こえない。鈴木が何かを言う間もなく、栄子はすっと立ち上がった。

「いこ、涼太くん」

当然のように存在する睦まじさ。いや、それもこれもすべてどうでもいいことだ。鈴木は心を殺した。自分にはもう関係のないことだ、と。

「鈴木先輩に何言ったんだよ」

「別にー」

じゃれあうような二人の声が廊下の奥へ遠ざかっていく。

「課長課長、なんだったんすか今の」

「いやなんか、のろけられた」

斉藤のぶしつけな質問にも、もう答えられる。あいつもしょうがないなと苦笑して見せると、斉藤は羨ましそうな顔で二人の消えた方に視線を送った。

――大丈夫だ。なんでもない。

「さ、飲もう。今日は俺が奢る」

「マジですか課長!」

「太っ腹ぁ」

部下や同僚からの賛辞に、鈴木はにこりとうなずいた。

数日後。友沢が外回りから戻ると、多忙そうな同僚が書類を抱えて、てんてこ舞いといった様子だった。軽い気持ちで手伝うと声をかけたが、まさか企画経営課に書類を持っていってほしいと頼まれるとは思わず、驚いた。

「課長の鈴木さんに頼まれてるやつだから。ちゃんと手渡ししてくれよ。よろしく!」

引き受けるんじゃなかったと後悔してももう遅い。あたふたとデスクへ戻っていく同僚を恨めしそうに眺めて、友沢は嘆息した。気が重い理由が説明できるわけでもないし、頼まれたものは仕方がない。友沢は別フロアにある経営企画課へ向かった。

パーテーションで区切られた向こう側に顔をのぞかせると、ばちっと音がしたように正面の席の鈴木と目が合った。ぺこり、と頭を下げる。

「なんか用か」

鈴木のところまで行くと、鈴木は既に目線をPCに戻し、作業を再開していた。

「これ、頼まれたやつです。営業全員の分、終わったんで……」

「分かった。ありがとう。そこ置いといてくれ」

鈴木はキーボードの脇の書類置きを指し示す。

「じゃ、ここに置きますね」

「ああ」

「失礼します」

うなずきながら見上げた目が、眼鏡の奥で少し柔らかくなった。

「お疲れ」

それに応えて再び頭を軽く下げると、鈴木の席から離れる。フロアを出ると、友沢はふぅっと息を吐いた。その気はなかったが少し緊張していたのかもしれない。

――でも先輩、意外と平気そうだったな。

ごく普通のやり取りだった。談笑するほどではなかったけれど、元々無口な鈴木だから、社内の会話としてはあんなもんだろう。先日、飲み屋ですれ違った時に、栄子が何を言ったのか聞こうかとも思ったが、仕事中なのでやめておいた。栄子は「なんでもない、お礼を言っただけ」と言うが、友沢は気になっていた。と言って、呼び出して聞くほど大袈裟なことでもない。どこかでもやもやとしたものを抱えながら、まあいいかと友沢は流すことにした。

そんな友沢が驚くべき事実を知ったのは、それからさらに数日後のことだった。

「うっそお〜。え〜、ほんとにぃ?」

「鈴木さんって、男の人だよね、あの、経営企画課長のだよね?」

給湯室から聞こえてきた女の子たちの声。噂話の中の先輩の名前に、友沢はつい耳をそばだてた。

「信じられない」

「ちょっと盛ってるよね」

「ほんとだってば! 私、会議中にお茶出してて見たんだもん、こう……」

「いきなり? それはないよねー」

「だから本当なんだって!」

廊下で聞いているだけだとなんだか分からない。ちらっと中を覗くと、すぐに気付かれてしまった。

「あっ、すみません、すぐ行きます」

「いいのいいの、そうじゃなくって。俺もお茶入れようと思ってさ」

「えっ、そうなんですか」

「うん、うちの部長コーヒー嫌いで、お煎茶がいいって言うんだよね。そんじゃあ俺が入れますよって言ったの。営業の友沢です、どうもー」

「知ってますよ〜」

「有名ですもん」

「え、そう?」

「そうそう」

仕事中にサボっておしゃべりしていたことを咎められるわけではないと分かった三人は、緊張をほどいてにこにこし始めた。やかんの水はすっかり沸騰していたが、お茶を淹れる手を動かさないまま、三人のうちの一人が会議室で何があったかを友沢に話してくれた。

「……ということになっております。えーではお手元の資料、次のページをご覧ください……」

少しはぼんやりしていたと思う。だが、プレゼンターが話すことを聞いていないほどではなかった。

「おい、おい、鈴木くん!」

資料を開こうとしたところに隣からひそひそと声をかけられた。まるで、授業中に起こされる時のような声音だ。鈴木は、寝てなんかいませんよと答えようと、そちらへ目をやった。隣に座っていた部長は、眉をひそめて心配げに鈴木を見ている。その様子に、鈴木は違和感を覚えた。

「なんですか」

プレゼンは続いている。声をひそめて部長に尋ねると、部長はおもむろにハンカチを取り出した。

「持ってないのか?」

「いや、持ってますけど」

何のことだと訝《いぶか》しむ。部長は、顔を拭くような仕草を見せている。ズボンのポケットに手を伸ばすと、体勢が変わったせいか頬に何かを感じた。指先で触ってみる。

――濡れてる?

眼鏡を押し上げてハンカチで拭い、ようやく気づいた。自分が、涙を流していたのだということに。

「大丈夫か」

部長が心配そうにしていた理由も、これで分かった。部下が会議中に泣いていれば、誰だって驚く。鈴木自身、何が起きたのかと狼狽していた。幸い、会議のメンツの視線はスクリーンに集まっている。すすりあげたりもしなかったから音はせず、たまたま見ていた部長しか気づかなかったようだ。だがこみ上げる羞恥に耐えられず、鈴木は席を立った。

「鈴木くん」

「大丈夫です、何でもありません」

コンタクトだったら良かった。コンタクトがずれたと言えばそれで済むのに。眼鏡では言い訳にならない。会議室を抜け出した鈴木は、お茶を入れてくれていた女子社員がそれを噂として広めなければいいがと心底願った。

だがその願いはむなしく打ち砕かれる。

「……と、いうわけだったんですー」

「マジかよ」

「本当なんですって」

彼女の話が信じられないということではなかった。友沢の言葉は、鈴木が泣いたという事実に衝撃を受けたものだったが、女子社員は本当に見たのだと主張し直した。話を聞いていた二人は、男性が突然涙を流すなんてありえない、その話は大袈裟だと繰り返した。繰り返されるやり取りに、友沢が割り込む。

「それさ、いつのこと?」

「え、先週ですけど」

友沢が書類を届けに行った日の、前の日だと言う。この間の様子では、前日にそんなことがあったとはまったく気づかなかった。会社で突然泣いてしまった人という風には、とても見えなかった。コンタクトがずれたとかそういうことなんだろうか。いや鈴木は眼鏡だ。では、本当に泣いたのか。だとしたら何故。友沢は自分が関係しているのかと思ったが、鈴木の様子からすれば無関係であるように思える。本当に、今までとなんら変わりがなかったのだ。

――いや、分からねぇ。あの人、”演技”できるんだもんな。

「友沢さん?」

「ああ、何でもない。その話さ、みんな信じないかもしれないし、あんまり言わない方がいいかもね」

こんなことでフォローにはならないだろうと思いながらも、少しでも火消しになればと口にする。

「確かに、あの鈴木さんが泣いたとか、ちょっと信じられないもんね」

「だよね」

「もし本当ならさ、何があったんだろうねー!」

「よっぽどだよねぇ。めちゃ気になる〜」

案の定、鈴木に対する噂は止まることがなさそうだった。これ以上言っても無駄かとこっそり嘆息する。先に行くねと念を押し、友沢は給湯室を出た。

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