「栄子ちゃん、お疲れ!」
「友沢さん、お疲れ様ですー。なんかすごい、肌寒いくらいと思ってたのに、暑ーい。あ、鈴木さん、ありがとうございました! テニス初めてだったけど、鈴木さんのおかげで楽しかったです」
「そう。良かった」
素人が楽しめるように、綺麗なフォームだの正しい打ち方だのといった基本訓練はそこそこに、なるべくボールを打ち合うようにしたのが功を奏したんだろう。栄子は楽しげな顔で「いい汗をかいた」と言いながらタオルで顔を拭っている。栄子の後ろで彼女が打ち損じたボールの処理をしていた友沢は、疲労感が顔に出ている。
「久々だと……疲れますね」
「お前結構走ったしな。でもよく返してたよ」
「ほんとっすかあ。いやでもやっぱスライスが苦手で」
「大学の時、練習サボってたんじゃないのか」
「ばれました?」
「苦手球あるの良くないぞ。それとバックのさ、入りのタイミングがちょっと遅いと思った。くせかな。手首の返しもちょっと、こう……」
可愛い水筒に口をつけている栄子の横で、鈴木と友沢はテニス談議に花を咲かせた。二人とも学生時代以来のテニスで、疲れはしたものの楽しかったのだろう。技術の話からプロの選手の話、今年のウィンブルドンは、などと話題は多岐にわたった。栄子にはまったくついていけない。そもそも、テニスには興味がないのだ。退屈な話を聞きながら、にこにこと鈴木を仰ぎ見ている。鈴木のそばに立っていられるだけで幸せなのだろう。近づき始めた冬の気配も、のぼせた栄子の頭を冷やす効果はあまりないようだった。
栄子の、鈴木への気持ちはどんどん加速していった。友沢を利用していることは分かっている。悪いとも思っている。実際、もうやめようかと口に出すこともあった。だがその度に友沢は「気にしないで」と、鈴木とのテニスをセッティングしてくれる。
友沢は、栄子の想いが叶わないと知っていた。鈴木の真実を知れば、栄子は傷つく。もし人に広まることになれば、鈴木も傷つくだろう。そう思うと、すべてを壊してしまうのが怖かった。栄子が嬉しそうにしている顔を見られるだけで幸せだったし、無理に距離を詰めて嫌われたくもなかった。
鈴木は、友沢が栄子を好きだということにすぐ気付いた。好きな人が、別の人を好きで、その相手と三人で会わなくてはならない。しかも、自分の友沢への気持ちは絶対にばれてはならない。友沢にも感じさせてはならない。いくら無表情が基本の鈴木であっても、それは難しいことだった。だが栄子は、鈴木の気持ちなど微塵も気付かなかった。無邪気な顔で嬉しそうにしている栄子に、作り笑顔を向けるのはストレスだった。それでも、誘ってくる友沢の頼みを断れない。友沢に会えるのはその時だけなのだ。
三人の、がんじがらめで身動きが取れない関係は、年末まで続いた。周りから見れば、不思議な関係だっただろう。二人の男と、一人の女が、仲睦まじくテニスをする日曜日。帰りに食事をすることもあった。その様子は、ごく楽しそうな友人同士の関係に見えた。だが、実際にはねじれた関係で、三人のどうしようもない想いは入り組んでいく――。
いつまでも、このままではいられない。
三人ともがそう思っていた。
一月のある夜、鈴木は仕事も早くに切り上げて帰宅していた。新年会も終わり、すっかり日常が戻ってきている。自宅マンションのベッドに体を横たえて、鈴木は眼鏡を外し、煙草をくわえた。ライターを手にしたものの、ほんの僅かな手間も煩わしいほど疲れている。火のついていない煙草を口の端で揺らし、嘆息した。
「はあ……」
年が明けてからこっち、友沢からの誘いはない。お互い、仕事も忙しかった。ほっとする。淋しさが募る。友沢は、栄子と会っているのだろうか。今後、変化が起こるのだろうか。それはいつ。どんな形で……。鈴木は握りこぶしにライターを握りこんだ。
会えば苦しい。会えないのも苦しい。好きだという感情を抑えて、先輩として接し続けるのは限界があると思っていた。それでも、会社ですれ違う以外に友沢と同じ時間を過ごせることはない。もはや気楽に飲みに誘える間柄でもなくなってしまった。それを思えば、テニスはいい口実だ。とはいえ、栄子の好意を無視し続けるのも重荷だ。何も分かっていない栄子を見ているのも、勝手だとは思うが、腹が立つ。いっそ、すべてをぶちまけてしまおうか。栄子に、俺は友沢が好きなのだと言ってしまえば、栄子も諦めがつくだろう。そうして……テニスはなくなり、友沢には会えなくなる。会社で噂話が広まって仕事がしづらくなる可能性も高い。
「はあ……」
のろのろと起き上がり、煙草に火をつける。辛い煙を吸いこみ、大きく吐き出した。
音が鳴って、スマホに目をやると友沢からの着信を知らせる表示が見えた。出ようか。出まいか。逡巡するけれど、結局、鈴木に出ないという選択はできない。
『今晩は』
「ああ、どうした」
『今、大丈夫ですか』
――全然大丈夫じゃない。
「なんだ」
『栄子ちゃんの件……なんですけど』
深刻そうな口調。今までのようにテニス行きましょうと切りだしてくる口振りではない。鈴木はまだかなり長い煙草を灰皿に押しつけ、身構えた。電話の向こうの声に耳をすませる。嫌な予感がした。
『俺……彼女が好きです』
「ああ」
抑揚のない声で答える。電話で良かった。顔が見えないことはコミュニケーションを難しくするが、時として助かることもある。
『本気なんです。でも彼女に先輩のことを諦めてもらわないと前に進みません。今年こそは何とかしたいと思って。ただ、先輩のことは……俺、絶対に言いません』
――ゲイとはばらさない、ということか。
「で?」
『今度、栄子ちゃんと一緒に会ってもらえませんか』
「……」
『ちゃんと告白した方がいいって言ったんです。そしたら恥ずかしいって。だから、俺がセッティングするって言いました。静かなところがいいかなって思ってます。……ご迷惑だとは思いますが、先輩の家に栄子ちゃん連れてっていいですか』
「俺の?」
『外じゃない方がいいと思って。でも、先輩に俺の家まで来てくれってわけにいかないし』
「分かった」
『……栄子ちゃんのこと、きっちり振ってください』
「そうしたらお前が慰めるってことか」
『鋭いですね』
「分かりやすいよ」
『最低ですよね、俺。先輩にももうさすがに嫌われちゃいますね』
「何の話だ。お前のことは好きでも嫌いでもない。ただの後輩だろ」
『……そうっすね。今のは何でもないです。単に、人として最低だなってことです。好きな子が傷つくの分かってて弱みに付け込もうとするなんて。でも俺……』
「分かった」
『え』
「振ればいいんだろ。テニスは楽しかったけど、俺ももうこれ以上茶番劇には付き合えないと思ってた。いつでもいいから、連れてこいよ」
『……ありがとうございます』
「いいよ」
通話を終えて、鈴木はうつろな目でスマホの暗い画面を見つめた。自分の顔が映っている。本当に、電話というのは便利なものだ。相手の顔を見なくて済む。そして、自分の顔も相手に見られずに済む――。
友沢と栄子を部屋に通すと、二人が綺麗に整えられた物の少ない部屋に驚嘆している間にコーヒーを用意した。
「友沢のコーヒーの方が美味いと思うけど」
皮肉めいたことを呟き、ソファの前に置かれた小さめの四角いガラステーブルにカップを置いた。
「一人だから、ちゃんと座る椅子もなくて悪いな」
友沢と栄子は、ソファ近くの床に敷いたラグに腰をおろしている。
「いえそんな。めちゃめちゃ片づいてるんでびっくりです。俺の部屋とは比べ物にならないっすね」
「絨毯、ふかふか! 気持ちいいですね〜」
冬は毛足が長めで手触りのいいラグを敷いている。色は落ちついた暖色系だ。一人掛けの白い皮ソファととても良くマッチしている。
「……」
「……」
「……」
三人の沈黙があたりに満ちて、空気が重ったるくなる。鈴木は柔らかく立ち上がると、スピーカーのスイッチを入れ、小さな音でジャズピアノを流し始めた。静かなバックグラウンドミュージックだ。二人の緊張した気分はぐっと和らいだようだ。
「いいですね、これ」
友沢はスピーカー自体を褒めている。外見もブラウンでおしゃれなスピーカーは鈴木も気に入って、去年買ったものだった。
「サンキュ」
「こういう音楽かかってるとすごく落ち着きます。なんかカフェみたいで、雰囲気ありますね」
そう言う栄子にも小さく笑みを浮かべて応えると、鈴木は元の位置に戻ってラグに座り、コーヒーを口に含んだ。
「で……今日なんですけど。栄子ちゃん」
友沢が促すと、栄子は緊張した面持ちでうなずき、居住まいを正した。
「去年は、何度も鈴木さんにテニス教えてもらって、すごく楽しかったです。感謝してます。ありがとうございました。今日は……その、真面目な話をしようと思って」
「うん」
「あの。……私と、お付き合いして下さい!」
「無理」
勢い良く下げた頭を、また急いで引き上げると、栄子は綺麗に整えたまつげをゆらして鈴木を見つめた。
「無理……って」
「悪いけど、君には興味ないから」
これ以上ないというほど冷たく、なめらかに、鈴木は断った。視線を外し、カップに口をつけて、コーヒーをゆっくり飲む。栄子に視線を送ることはしなかった。そして、友沢にも。
「な、言っただろ。先輩は……無理だって」
囁いて、肩に手を回そうとする友沢を、栄子は見もせずに振り払った。丹念に描かれた眉がぎゅっと寄っている。
「どうしてですか。好きな人がいるんですか?」
「いない」
躊躇せずに答えることが出来た。きっとこの質問は出るだろうと思っていたから、心の準備をしておいて正解だった。この質問で慌てて友沢を見てしまうような失態は絶対に避けなければならなかった。無表情のまま、鈴木は眼鏡の位置を直した。
「じゃあ……じゃあ可能性はゼロじゃないんだし、私、諦めません! 鈴木さんの好みの女になってみせます!」
「好みの女?」
つい鼻で笑ってしまう。
「そういうの、要らないから。久しぶりのテニスが楽しかったから、やってただけ」
――大好きな人の頼みだったから、仕方なく。
「俺は、誰とも付き合う気がないんだ。これ以上は時間の無駄だよ」
「そ……んな」
「もうテニスも行かないから」
思い切り突き放し、冷淡な視線で見下ろす。栄子の目に盛りあがった透明な涙がこらえきれずに溢れ、頬に伝った。
――これでいい。希望を持たせるのは酷だ。そうだよな、友沢。
両手で顔を覆ってしゃくりあげる栄子の肩を、今度こそ友沢が力強く抱きしめた。子供を慰めるように、髪を撫でる。鈴木はゆっくりと目をそらした。
「帰ろう、栄子ちゃん。送ってくよ」
栄子を支えるようにして立ち上がった友沢が、鈴木を振り返った。頭を下げる仕草をしながら、唇だけが動く。
『ありがとうございました』
鈴木は、黙って首を横に振った。
好きな人の幸せを望むのは、誰でも同じ。
自分も幸せになりたい。それもみんな同じだ。
でも、三人の願いが同時に成立することはない。三人が揃って幸せになどなれない。
三角形を作る一方通行の矢印三本は、永遠にループしてしまう。どこかで一つの矢印をゆがめて相互通行を一つ作り、残り一本の矢印はその場を去るだけだ。その場合、自分が去るべき矢印だと、鈴木は甘んじて受け入れていた。
――仕方がない。あっちはごく普通で、俺は変、だから。
二人が使ったカップがテーブルに残されている。鈴木はそれを手に取り、しばらく眺めていたが、つとベランダに出ると、タイルにそれらを落とした。叩きつけるでもなく、ただ、手を離した。固い音がしてカップは割れ、かけらが飛び散る。表情をなくした鈴木は、ややあって呟いた。
「馬鹿だな。掃除が面倒になるだけだっていうのに」
ベランダを片づけ、ゴミをすべて袋に入れて捨ててしまうと、いつもの綺麗な部屋が戻ってきた。相変わらず部屋には穏やかなピアノの音が静かに流れている。
――うるさい。
スピーカーのスイッチを乱暴に切ると、鈴木はベッドに倒れこみ、眼鏡を外すと、枕の下に顔を突っ込んだ。