一方通行トライアングル

さようならと告げた日から、時間は淡々と過ぎていった。何も起こらない平坦な毎日。鈴木はその思いを胸の奥底に押し込めて、ひたすら仕事に打ちこんでいた。

夏が過ぎ、短い秋が深まって、そのメールが届いたのは、空が灰色に滲む肌寒い日のことだった。

鈴木は、眉を寄せてスマホの画面を凝視していた。

『良かったら今度の日曜、テニスしませんか』

――なんだこれ。

大きく嘆息し、眼鏡を外して机に置いた。椅子を大きく後ろに倒して、両腕を頭の後ろで組む。

何故なのか。どういう意図があるのか。白い天井は何も答えを返さない。

机のスマホはややあってその光を消し、同時に友沢からの誘いの文章も見えなくなった。鈴木はもう一度ため息をつき、まぶたを閉じた。

市の公園にあるテニスコートは、登録している会員のほかに、空いている時間に個人で利用することも可能だ。市内在住あるいは在勤であれば、前もって予約しておけばいい。大学を卒業してからテニスはほとんどしておらず、住んでいるマンションのわりと近くにあるコートのことも、存在は知っていたけれど、今まで一度も使ったことはなかった。電話すると割合簡単に手続きができた。鈴木は、自分の名前で日曜の午前中に予約を入れた。

久しぶりのコートに足を踏み入れると、懐かしい高揚感に包まれる。離れていても、テニスを嫌いになったわけじゃない。ラケットを二本入れたケースをベンチに置くと、鈴木は軽く準備体操を始める。しばらくして、待ち合わせの相手が現れた。

「先輩」

声に応えて、無言で手を上げる。いつもよりさらに表情が硬くなっているんじゃないだろうか。それも仕方ない。緊張もするというものだ。友沢とは元の通りの――好きだと告白する前の――関係を保たなくてはならないのだから。あれから数ヶ月、自分なりにきちんと対処してきたつもりだった。なのに何故いきなり誘ってきたのか。

結局その意図が分からないまま、それでも友沢の誘いを断れなどしないから、こうして準備をしてテニスコートへやってきた。友沢が何を考えているのか。それが分かったのは、友沢の後ろから顔を出した女性のやや紅潮した頬を見たからだった。

「夏村栄子です。この間は……どうも」

経理に所属しているこの女性を、鈴木は知っていた。何故なら、夏ごろに彼女を『助けた』ことがあったからだ。

会社の廊下を歩いていた鈴木の耳にすすり泣きが聞こえたのは、ほんの偶然だった。メールの受信を知らせるスマホを取り出したのがちょうど資料室の扉の前で、その時、扉の中で誰かが鼻をすすった。それだけならなんてことはなかった。が、そのまま立ち止ってメールに返信を書いていると、細い泣き声が続いた。歩いていたらきっと気付かなかっただろう。

中に入ると、資料棚の後ろで女子社員が泣いていた。社内の環境整備は、鈴木の仕事の一つでもある。社員のトラブルがあるなら、それとなく把握しておくのも必要なことだと思い、鈴木は小さく咳ばらいをして、自分の存在を相手に伝えた。

「……っ!」

「すみません。音がしたので、気になって」

そう言いながらハンカチを取り出して手渡す。やや躊躇ったように見えたが、彼女はそれを受け取り小さく頭を下げた。

話を聞くと、課の別の女子社員に暴言を吐かれることがあると言う。自分がすぐに対応できることではないが情報として蓄積し、課の方にそれとなく伝わるように手を回すといった話をしてやり、その場は別れた。後日、綺麗に洗ってアイロンをかけたハンカチを返してもらった時、今と同じように頬が赤く染まっていたことを鈴木は覚えている。

そんなこととはつゆ知らず、友沢が夏村栄子を見染めたのはつい先日のことだった。

「俺、どうですか?」

「……え?」

「誰ですか、って思った?」

「あ、まあ」

不審げな顔で睨まれても仕方ない。でもこういう時はあけすけに押すのが友沢のやり方だった。回りくどいことは得意じゃないし、好きでもない。

「最初は先月、かな。覚えてないだろうけど、正面玄関でぶつかりそうになったんだよ。その後、エレベーターで乗り合わせた。素敵な人だなって思ったんだ」

驚きながらも、まんざらでもなさそうな顔。でもまだ心は開いてない。友沢は取り出した名刺をもったいぶって差し出した。

「営業二課、友沢涼太です。よろしくお願いします。……まずはお互いを知り合うために、軽くご飯でもどう?」

営業マニュアル通りに一礼してからのとびきりスマイルは、彼女の唇を少し押し上げた。第一段階は成功だ、と友沢の心は弾んだ。

「ランチなら、最近見つけた美味しいおそばのお店があるんだけど……あ、渋すぎる? フレンチもいいとこあるよ。料理ももちろんだけど、デザートのケーキが最高なの。小さくて可愛くて、三つまで選べるんだ。それか、中華もいいよね。お弁当屋さんなんだけど、好きなメニューを箱に詰めてくれて、おしゃれだよ。何が食べたい?」

「友沢さん、すごーい」

嬉しそうな栄子に、友沢の心は鷲掴みされた。きゅんとときめく胸。

――可愛い〜! これこれ、これだよ! やっぱ女の子はこうじゃなくっちゃ!

ランチに辿りついて、お互いのことを知り合って、次の約束を取り付けて。そこまではとても順調だった。相手も楽しそうにしていたし、何の障害もないと思っていた。ところが、その二回目のランチデートで友沢は想定外のノックアウトを食らったのである。

「ありがとう……友沢さんいい人だし、楽しいし、ちょっと前までだったらオーケーしたと思う。……でも」

「でも?」

「ごめんなさい、今は好きな人がいるの」

顔の前で両手を合わせて栄子が目をつぶる。それすら可愛い。分かりやすく断られたのに、友沢は諦められなかった。しつこくするのは良くない。それは分かっていた。そんなのはださい男のやることだ。分かっているのに。それでも。

「そっか、それなら仕方ないよね。だけどさ。だけど、俺……その、俺も悪くないと思ってたんだけど、駄目かなあ。その人に、負ける?」

――ああ、だっせぇ……。

「負ける、とか、そういうことじゃないんだけど……」

「素敵な人なんだ?」

「……うん」

恥ずかしげにうなずく栄子を見ていると、嫉妬心がめらめらと湧き上がるのを抑えられなかった。男の自負心はあほらしいほど負けず嫌いだ。

「会社の人?」

「うんまあ」

「どこの誰、とか」

そこまで聞かれるとは想定していなかったのだろう、彼女の目が友沢を睨む。やばい。しつこすぎた。嫌われる。そう思ってつい唇を噛む。しゅんとうなだれた様子が心に響いたのかどうかは分からないけれど、栄子はくすりと口元を緩めた。

「あのね、経営企画課の、鈴木さんって人なんだけど」

――うへぇ。

まさかの先輩。友沢はマジか、と両手で顔を覆って机に肘をついた。栄子の方は逆に体を乗り出してくる。

「知ってるの?」

「あー……うん。大学が同じで、就活の時からお世話になってる先輩」

それ以上のことは言えない。

「そうだったんだ〜! え、じゃあ色々教えてね。私、ついてる〜! ……って、あ、ひどいよね。ごめん」

興奮気味に口を開いたものの、友沢の気持ちを踏みにじることを口走ったと気付いたのだろう。栄子は両手の指先で可愛らしく口を押さえて謝った。

「気持ちは分かるよ。好きな人のことは知りたいもんだよね。俺も夏村さんのこと、経理の知り合いとかに聞いたもん」

「えっ」

「外見は割と派手っぽい感じだけど意外と努力派。簿記二級持ち。雑貨好き。あと和食ならそばが好き、フレンチと中華も好きみたい、とかね」

「リサーチされてる……!」

「ごめん。でも誘うなら相手の好みは知っておきたいしさ」

「確かに。……だったら、さ」

「え?」

「私も同じ。知りたいよ、鈴木さんのこと。鈴木さんの食事の好みとか、知らない?」

食事の好みもさることながら、恋愛の好みをよく知ってる。彼女の想いは届かない。しかしそれをここで言えば、鈴木をさらにひどく傷つけることになるのは目に見えている。言い淀んだ友沢の気は知らず、栄子はもう一度ごめんと謝っている。

「無理かあ。友沢さんの気持ち聞いた直後にこんなこと聞くなんて、本当にひどいよね。ごめんなさい。協力したくないよね、やっぱ」

好きなコが、誰かのことを好きだと言っただけで、諦めるわけにはいかない。それに、相手は鈴木先輩だ。実るわけがないのだから、ますます諦められない。友沢は両手の指を組んで顎を置き、両肘をテーブルについて身を乗り出した。

「協力したくない気持ちでいっぱいです、正直。でも、それを口実に夕食にも付き合ってもらおうと思ってる、今」

大真面目な顔で言うと、栄子が相好を崩した。

「友沢さん、面白い。……じゃあ、商談成立ね」

「商談かよー」

「どこ行く? 私の好きなお店、リサーチしてあるの?」

「そりゃあ、してますよ。先月オープンしたばかりで、まだ行列が出来てるピザ屋さん、気になってるって話してたらしいじゃん」

「うわあ怖っ!」

「お客様の個人情報は弊社の統計やアプローチ方針の決定にのみ利用させていただきます。上記利用目的以外には一切の利用を行いません。また外部への流出に関しても最大限のセキュリティによって保持されることをここにお約束いたします」

「何それ、すっごい早口なんだけど! ウケる、すごいよー」

笑い崩れる栄子を連れて、友沢は噂のピザハウスへと足を向けた。そして鈴木が硬式テニス部の部員だったこと、自分はサークルでしかやっていなかったけれど、鈴木はその長身と落ちついたプレーで有名だったことなどを話し、せがむ栄子に勝てず、鈴木にテニスのお誘いメールを送ることになったのだった。

「夏村さんは初心者なんで、優しく教えてあげてください。鈴木先輩、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

ぴょこんと頭を下げた彼女に、鈴木は社交辞令的な笑顔を返す。友沢はいつも通り、にこにこと笑っているが、その胸中は定かではない。涼風が、三人の周りをくるくると踊るように回って通り過ぎていった。

「じゃあグリップ……持ち方ね。初めだし、一応フォームを教えるから」

「ありがとうございます」

「俺、壁打ちでもやってますね。二人はごゆっくり!」

友沢が夏村に目配せをして去っていく。その表情を見て、鈴木はやはりそういうことかと確信した。あの一件で、彼女の課に多少なりとも働きかけはした。女性の主任を通して報告を受けたが、確かに複数の女子社員と夏村の間にトラブルがあったそうで、鈴木と主任の打ち合わせ後、それは解消に向かったようだ。夏村は鈴木に好意を持ったのだろう。恐らく、自惚《うぬぼ》れではない。

友沢が夏村とどういう知り合いなのかは分からないが、交友関係の広い友沢のことだから、きっと何らかの事情で手を貸しているのだろう。友沢は優しい。だがそのおかげで、好きな相手から女性を紹介されるという、思わずため息をつきたくなることになってしまった。鈴木は夏村に打ち方を教えながら、どうしたものかと内心頭を抱えた。

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