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友沢が淹れてくれたコーヒーは確かに美味しかった。味にうるさい方じゃないから良く分からないけど、確かに会社のとは違う。そう言って褒めると、自慢げに口角を上げた。ああ、友沢の笑顔が好きだ。何度も思ったことを、また思う。
「コーヒーごちそうさま。じゃあ」
終電も近くなってきた。もう帰るしかない。今日のデートが最初で最後のご褒美だった。好きだという気持ちは封印する。会社でもどこでも、告白する前と同じように接する。それが約束だから。出来ると約束したから。だから、居心地の良かった部屋には、恐らくもう二度と来ないだろう。これで終わりだ。何もかも。そう考えると、胸が苦しくなる。分かっていたはずなのに。
「先輩、今日、楽しかったですか?」
「ああ。楽しかったよ。ありがとうな」
表情が豊かじゃない分、一つ一つの言葉に心をこめて伝えようと思う。友沢は鈴木の返答を聞いて、納得したように何度もうなずいた。
「俺、一つ、分かったことありました」
「ん?」
「先輩が言ったこと、分かった気がするんですよ。今日、俺もめっちゃ楽しくて」
「そうか」
「世話になったお礼だとか、約束だとか、途中からあんまりそーゆー意識なくなって。普通に楽しんじゃいました」
「それは……うん。俺も嬉しい」
「俺、その気がないなら最初から断れとか、言いましたけど……撤回します、あれ。何も知らないで、すいませんでした」
友沢が大仰に頭を下げたので、驚いてしまう。
「謝る必要なんかない。人によって考え方は色々あるし」
「食事に付き合うのは、先輩の優しさだったのかなって。近藤さんがどう思ったかは分からないですけど、そういう優しさもあるんだなって、思いました」
「……」
「俺、今日こうやってデートすることで先輩が余計に辛くなったりしなきゃいいなって思ってたんですけど」
「それはない」
きっぱり否定する。
そりゃあ、明日からは辛いだろう。だけど今日は本当に幸せな時間が過ごせたのだ。鈴木は心から嬉しかった。
この世には、どうにもならないことがたくさんある。どんなに好きでも、叶わない想い。「好きなら絶対に諦めるな」とか、青春映画のような綺麗事は通じない。がんばること自体が拒否される。好きだという気持ちを表現することすら許されない。それはもう仕方のないことだと、鈴木は受け入れている。
なのに。
二人で出かけられた。映画見て、酒を飲んで。私服の友沢が、俺を見て笑ってくれた。こんな経験ができるなんて思わなかった。
「嬉しかった。こんな楽しい時間過ごせて、本当に。……勢いで告白したりして悪かった。気持ち悪いだろ。男なのにな。変なこと言って、嫌な思いさせて、悪かったな」
声が震える。友沢は何も言わずにいる。笑顔は浮かんでない。どう思っているのか推測しても、感じのいい答えは出なかった。友沢がどう思っているかはともかく、言いたい言葉を飲み込んで、言うべき最後のセリフを言う。それが今やるべきことだと、鈴木は自分に言い聞かせた。
「それなのに、今日付き合ってくれて、ありがとう。すごくいい思い出になったよ。もう思い残すことはない」
「死ぬみたいな言い方しないでくださいよ」
やや焦ったように言う友沢に、言われてみれば確かにそうだと苦笑する。でも気持ちは死ぬのと似たようなものだった。明日からは友沢をちゃんと見ることも控えなくてはならない。むしろ前のように、たまに飲みに誘ったりもしづらくなる。友沢もこっちを避けるだろう。想像に難くない。明日からは、暗黒の日々だ。だから、思い残すことはない、というのは結構正直な気持ちだった。
「明日からは、ちゃんとするから。告白前の状態に戻る。ちゃんとやれるってこと、証明済みだろ」
友沢は言葉を失っていた。強く宣言するような鈴木の顔色は悪く、さっきまで楽しく過ごしていたのがまるで嘘のようだ。
――確かにそういう約束ではあるけど、普通に遊んだりとか、楽しかったのに。もったいない気もするよな。でも……それって気持ちを弄ぶってこと、だよな。やっぱ酷か。でもなあ。
背を向けて玄関へ向かう鈴木の背中を見ながら、友沢は唇を尖らせた。
何を言うのが正しいんだろう。
このまま終わりにしてやる方が優しいのか。
それとも。
「ホントに、いいんすか」
友沢が呟くと、靴を履こうとしてしゃがんでいた鈴木は、聞き取れなかったのか、訝《いぶか》し気な顔で振り返った。
「本当は、もっと……」
つい、言い淀んでしまう。
「もっと、恋人みたいな思い出作りたかったんじゃないっすか?」
夢を見たい、思い出がほしい。そう言ったのは鈴木の方だ。近藤さんにも、それで食事に付き合った。結局付き合ったりできないなら、最初から取り合わない方がむしろ優しいんじゃないかと言ったのは友沢自身。その考えは今も変わっていない。期待を持たせたって仕方がない。なのに、なんでだろう。淋しげな背中を見ていたら、なんだか居ても立ってもいられなくなってしまった。
「もう十分だよ」
「でも、好きならもっとって思うでしょ、普通」
「普通……って。お前、まだ酔ってるのか? 自分が何言ってるか」
「分かってますよ。でも俺、先輩に」
そこまで言った時、鈴木が片手を広げて前に突き出し、言葉の続きを制した。
「もういいから。お前に迷惑かけたくないし」
「……」
「いや、正直に言えば……お前に気持ち悪いって思われるのが嫌だからさ」
そう言って、鈴木は自嘲気味に口を歪《ゆが》めた。友沢は、告白された夜、腕を掴まれた時に恐怖したことを思い出した。瞬間的に気持ち悪いと思ってしまって、それを隠せはしなかった。振り返った自分の顔に、それはありありと浮かんでいただろう。好きな相手に拒否されるのは、辛いことだ。当然、鈴木もいたく傷ついたろう。友沢の胸に、罪悪感が広がる。
「俺……今日、楽しかったです。すごく。ホントに。ありがとうございました、先輩」
心臓が脈打つ音を感じる。
玄関のかまちに立つ鈴木に一歩近づく。
さらに心拍数が上がる。
「友沢……?」
「期待させるようなことをするのは残酷だって、俺、今でも思ってます。でも、せっかく最高の思い出をっていうんだったら、俺」
言いながら、間近に立つ鈴木を見上げる。
――背ぇ高いな。
「俺に出来る限りの夢を見せてあげたい……なんて言ったら偉そうですけど。ええっと」
友沢は大きく一つ深呼吸をした。
「これは、今日楽しかったお礼です!」
何万分の一秒か、キスしてもらえるのかと期待した自分を脳内で叩きのめす。それでも鈴木は押し寄せる感銘に震えていた。
友沢が自分に抱きついている。
恋人同士の抱擁というより、応援していたチームが勝った! というようなハグだ。何とも友沢らしい。自分にできる精一杯をとがんばってくれた、そのことがたまらなく嬉しい。枯れていた泉の水が再び湧くように、友沢に対する想いが高ぶってしまう。
友沢も勢いでがばっと飛びついたものの、どうしていいか分からず、体を離すタイミングを計りかねていた。鈴木が棒立ちになっているので、自分が一方的に抱きついた形のまま、どきまぎするばかりだ。ふと、煙草の匂いが鼻腔をくすぐった。
――先輩の匂いだ。
友沢は煙草を吸わないが、鈴木が机に置いていた煙草の箱とライターはなんだか映画の小道具のようでカッコイイと思っていた。鈴木がパラメンと呼ぶそれには、白い箱に青いクールな模様が入っている。鈴木の手が箱を握り、慣れた手つきで煙草を取り出し、火をつける仕草を思い出す。首元に漂う香りが、なんだか妙に色気を感じさせた。
「……ありがとな、友沢」
低く、静かな声が、そっと落ちてくる。いつもの先輩の声とは違う気がして、友沢の胸がどきんと高なった。
――えっ、えっ、なんだこれ。
至近距離まで迫る鈴木から反射的に後ずさろうとしたが、背中側はすぐ壁だ。見上げた至近距離に鈴木の眼鏡があった。その奥の瞳に、見入ってしまう。鈴木の双眸から強い想いを注ぎ込まれるような気がした。回線がショートしたように動けない。そのまま唇が奪われ、頭の奥がジン、と痺れた。
――き、き、キスしてる〜!
嫌がることも、気持ち悪いと突き放すことも、何もできなかった。指先が震えて、感覚がない。どくんどくんと脈打つ何かが頭の中で膨れて圧迫される。友沢は、体温がぐんと上昇していくのを感じながら、鈴木を受け入れていた。意味もなく、泣いてしまいそうになる。どうしていいか分からない。たかがキス一つでこんなに動揺したことがあっただろうか。
やがて唇が惜しそうに離れていき、ごくりと唾を飲み込んだ音がどちらのものかと悩んでいる内に、鈴木がずれた眼鏡を直した。
「悪い」
「あ、え……」
あまりにも驚きすぎて、感情がホワイトアウトしてしまったのか。気が動転した友沢は目を白黒させるばかりで、ちゃんとした言葉が出なかった。
「……さよなら」
絞り出すような低音で別れを告げ、鈴木は背を向けた。放心していた友沢がはっと我に返ったのは、鈴木が閉めた玄関扉が音を立てた時だった。
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