一方通行トライアングル

「俺がなんか勘違いしてます?」

向かい合わせに座った二人掛けの小さな席。食事の終わったテーブルの上に組んだ両腕を乗せ、友沢が軽く身を乗り出して囁いてくる。周りは騒がしく、会話が聞こえるようなことはないと思ったが、そうそう大きな声で話すようなことでもない。鈴木も知らずそれに合わせるように声を低めた。

「いや……」

「あの時のこと、夢じゃないですよね。現実ですよね」

詰め寄る友沢に、目を伏せてうなずく。やめてくれ。自分の失態を思い出して恥ずかしい。それに、顔が近すぎる。距離が近くなるだけで、ガキのように胸が高鳴ってしまう。

「なんで言ってこないんですか? 成功報酬、欲しくないんですか?」

言いだせなかった理由はいくつかある。

「成功してるかどうか、分からないし」

「ああ! それは大丈夫です。や、先輩すごいですよね。前と全然変わらないし。俺、あの時のことは残業で疲れて変な夢見たのかなって思ってたくらいです」

――変な、ね。

小さな言葉の選択にいちいち傷ついてしまう自分が悲しい。ぼそぼそと、次の理由を呟く。

「どう言い出せばいいのか、迷って」

頑張ったからご褒美頂戴と言うのと同じことだ。小さな子供じゃあるまいし、恥ずかしくて自分からそんなことを言いだせなかった。

――それに……怖くて。

この理由は、口には出せない。

思い出がほしいとは言った。けれど、何をもらえばいいというのだろう。鈴木が欲しいのは友沢の心だ。けれどそれは望むべくもない。友沢に男との関係を考える余地は一切ないのだから。だからせめて、失恋の痛手を埋める小さな思い出がほしいと思ったのだった。けれど、何を? 身体的接触は気持ち悪がられて無理だろう。写真? 友沢の明るい笑顔が好きだ。普段からにこやかだけど、ふとした瞬間に見せるふわっとほどけるような笑顔や、ふざけ合ったりしている時に見せる弾けるような笑顔が好きだ。撮らせてくれるだろうか。いや無理だ。軽蔑されるに決まっている。そもそも、俺に向けてあの笑顔を作ってくれなんて言えたもんじゃない。色々考えても、結局は無理だろうという結論に行きつく。鈴木は首を横に振った。

「いいよ、もう。あの時は俺もちょっと動転してあんなこと言ったけど、終わった話だし、忘れてくれて構わないから」

吐き出すように言う。

「俺は嫌です」

友沢は、さも当たり前のように口にする。鈴木は間抜けた顔で、疑問符を宙に浮かべた。

「嫌って」

「先輩は約束守ったじゃないですか。俺が守らないのって気持ち悪いっすよ。それに、先輩には就活の時からお世話になってるし、お礼って言っても俺なんかにできることもなくて、なんかないかなって思ってはいたんです。だから、今回のことはまあちょうどいいっつうか」

友沢は横を向いて鼻の頭をかいた。いい奴だ。義理堅い。友沢を見ていると、胸が柔らかくしめつけられる。甘い痛み。改めて……好きだ、と思う。

「ありがとな」

「いえ」

「その気持ちだけで十分だよ」

「だーかーらぁ!」

思わず声を荒げた友沢は、静かにしろという動作を見せる鈴木にうなずいて応えながら、顔を寄せてきた。それがどんなに鈴木の胸を高鳴らせるか、何の自覚もないに違いない。

「じゃあ、デートしましょっか」

「はぁっ?!」

今度は鈴木の方が大声を出し、あまつさえ椅子を鳴らして立ち上がってしまった。周囲の客が数人、目線を送ってくる。謝罪の意を示しながら慌てて座り直した。

「二人で出かけましょうかって。そんくらいならそんな変なことじゃないし」

――また、変って言った。

変ということは、人と違う、おかしい、異常だと言われているようで、どうしても傷ついてしまう。なのに、デートという単語には素直に胸が躍る。鈴木はそんな感情が表情に出ていないことを祈った。指で軽く眼鏡のレンズの下をなでる。

「映画見て、飯食うとか、そんな感じでいいっすか?」

「あ、ああ」

それは、鈴木が思っていた以上に嬉しい申し出だった。何を言っても気持ち悪いと拒否される気がして、想像するだけで吐き気がしていた。何も望めなかった。それが、デート、だなんて。二人で街を歩いて? 一緒に飯を食ったりして、映画なんか見たりして……本当にいいのだろうか。想像するだけでも浮かれてしまう。しかし、表情には出ない。眼鏡の奥の目は表情に乏しく、うつむいて、それでいいとうなずく鈴木に、友沢はいぶかしげに首をかしげた。

「ほんっとーに、そんなんでいいんすか?」

「いいよ。ていうか……」

「ていうか?」

「……嬉しい」

絞り出すように言った鈴木に、友沢は目を丸くした。

本社勤務。経営企画部の課長。山のようなデータを素早くさばく仕事の出来る男。身長も高く、太ってもいなくて、清潔感もある。愛想はないが、むしろそんなところがクールでかっこいいと女子社員の人気も高め。ついこの間も社員食堂で女子社員に告白されていた。そんな男が目の前で体を小さく丸め、たいしたことない申し出を喜んでもじもじしている。友沢は、にわかには信じられなかった。

実際、信じられない。好きだと言われたけれど、翌日からは約束通りまったくそんな素振りを見せなかったのだ。あれは残業の合間に見た夢だったのかと、そう思っても不思議がないほどに。今日、ランチに誘って話をして、あれはやはり夢ではなかった、鈴木は男である自分のことが好きなのだと再確認したけれど、それでもどこか現実味がなかった。まさか、男が男を好きだなんて、そんな話が本当にあるとは思わなかった。そういうのはテレビやなんかで見る話で、自分の身の回りに当事者がいるなんて、友沢は想像もできなかったのだ。それが、今まさに目の前ではにかむ鈴木を見て、信じないわけにはいかなくなった。

「そ、そっすか。……あ、じゃあ今度の日曜、二時に」

「分かった。あ、触ったりとかしないから。男同士で歩いてても、その……変に見えないように気をつけるから」

「ありがとうございます」

「……うん」

感謝の言葉に答えただけの、短い肯定。深い意味があるとは思えない。けれどその目が揺らいだのを友沢は見た。

本当はもっと、とか思ったんだろうか。手を繋いだりしてみたいのかな。でもそれは言わない……いや、言えないのか。

友沢は、鈴木の様子から気遣いと小さな落胆、そして諦めと哀しみのようなものを感じた。告白された夜はあまりに動揺していてまったく気付かなかった、鈴木の心の底に沈んだ思い。今まで経験してきたであろう痛みの一端を、友沢はこの瞬間、言葉にはならない何かで受け取ったのだった。けれどそれは、同情はしても、理解して受け入れることとはまた別だった。

「会社戻るか」

立ち上がる鈴木に合わせてレジへ向かい、ほとんど言葉も交わさぬまま二人は別れた。

五月の終わり。晴れて良かったと思いながら、鈴木は左手の時計に目を走らせる。待ち合わせ時間を少々過ぎたところ。カジュアルな白シャツにダークなパンツという格好で鈴木は立っていた。飾り気のない、シンプルなスタイル。やや遅れて現れた友沢はTシャツにデニム、上からミリタリー調のジャケットを羽織っている。

「すみません、先輩を待たせるなんて、後輩失格っすね!」

「いや」

手を口に当てる。思わずにやけそうだ。

――格好いい。

素直にそう思った。オフで会うのは初めてだ。就職活動でOB訪問してきた当初から背広だった。こんな風に、いつもと違う格好の友沢を見られただけで今日はもう大収穫だ。友沢の方も、珍しげに鈴木をチェックしている。

「先輩、いつもより若く見えますね」

「そうか?」

「髪も、こう、さらさら〜ってしてるし」

片手をおでこのあたりでひらひらっとさせる。確かに、今日は髪を固めていない。会社に行く時は前髪が邪魔にならないように上げているから、いつもと印象が違って見えるのだろうか。

「イケてますね!」

親指をくっと立ててみせる友沢の笑顔がきらめいて見える。

「……さんきゅ」

まずい。口がにやけてしまう。会社ですれ違うくらいならなんということもなく誤魔化せたが、こんな風に二人きりで、正面切って話していたらまずい。隠し通せない。鈴木は改めて気を引き締めた。

「行くか」

「あ、はい」

目をそらし、さっさと歩きだすと、後ろから慌ててついてきた友沢が隣に並ぶ。

「でも本当になんかこう爽やかで、モテるの分かりますね」

褒められて悪い気はしない。それどころか、好きな相手にイケてると言われれば浮き立つ心を抑えることはできない。だが、気を引き締めなければと思ったばかりだ。ちょっと冷たすぎるかと思うくらいにあしらう。

「そんなことない。ああ、営業トークか」

友沢は営業だし、こういった相手を喜ばせるトークは得意中の得意のはず。就職の時も、営業志望だと言っていたし、めでたく配属もされた。向いているんだろう。

「違いますって。先輩相手に営業してもしょうがないっしょ!」

屈託なく笑う友沢を可愛いと思う。いかんいかん、普通に見えるようにしなければ。でも普通って、どんなんだろう。密かに悩む鈴木をよそに、友沢は会話を続けている。

「それに先輩、本当にモテるじゃないですか。近藤さんに告白されてたし」

「は?」

「ほら、社食で。食事行こうって」

「……あー」

誰だ、何の話だと思っていたら、社員食堂で告白された時の話だった。鈴木はその時、友沢の気持ちが気になって女子社員どころではなかった。どうでもいい話だ。せっかくの、二人きりのデートなのに。

「でもあれ、なんでOKしたんすか?」

友沢の声がやや非難めいたものになり、鈴木は面食らった。

「食事しただけだ」

「あ、もう行ったんですね。どうでした?」

「どうって別に」

「改めて告白されたでしょ。付き合って欲しいって」

「ああ、まあ。もちろん断ったけど」

あっちゃあ〜とでも言いたげに、友沢は手を額に当てて嘆息した。そんな仕草が解せない。鈴木は首をひねった。

「なんでお前がそんなこと気にするんだよ」

「いやいや、俺はいいんですけど。近藤さん、結構ショックだったみたいで、噂んなってましたからねえ」

「……そうなのか」

そういったことに疎い鈴木は、友沢の情報の早さに驚く。

「食事に付き合ってくれたから、断られるって思わなかったんじゃないですか。どうせ断るなら、食事の誘い自体を受けなければ良かったのに」

「……」

「俺が言うのもあれですけど、彼女が可哀想で。どうせ振るんだったら、期待を持たせない方が良かったと思うんですよね。あ……すんません、偉そうに」

友沢はいいやつだ。他人のためにむきになる、こういう優しいところも好きだ。鈴木はそう思って小さく笑みを浮かべた。

「お前の言いたいことも分かるよ。興味ないのに余計なことするなって言いたいんだろ」

鈴木の言葉に友沢はうなずいて見せる。

「分かるけど……な」

例え駄目でも、ほんの少しの時間くらい夢を見たっていいじゃないか。期待させない方がいいかもしれないけど、俺は、俺なら……思い出がほしい。そう思った。だから楽しく食事をした。近藤さんは嬉しそうにしていた。頬を染めて。そんな様子は可愛らしかった。振る時は胸が痛かった。本当に悪いと思った。でも、自分には好きな人がいるから付き合えないとはっきり言った。近藤さんは涙を流し、食事のお礼を言って帰っていった。その姿は、自分に重なって見えた。友沢。友沢。俺はお前が好きだ。付き合えたらどんなに幸せか。でも……無理だ。だからせめてと願った。同じことだ。お前が今日付き合ってくれて嬉しいよ。この先の日々が真っ暗でも、せめて今日一日は楽しく過ごしたい。夢を見たい。そして明日からはこの思い出を抱えながら過ごす。好きだという気持ちは、封印して。

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