一方通行トライアングル

告白した夜、暴走してしまったことは痛恨の極みだった。だが鈴木は、本来なら感情を押し殺すのが得意な方だ。というより、感情をあらわにする方がむしろ苦手だった。黙っていると「なんか怒ってる?」と一緒にいる相手を不安にさせるくらい、無表情がデフォルト。だから、友沢に与えられた試練は思ったほど厳しいものではなかった。

部署も違う、普段それほどちょくちょく会うわけでもない。たまに社内ですれ違う時に、「同じ大学出身者で顔見知りの先輩後輩」としてちょっと挨拶をすればいい。顔が赤らむことも、照れてうろたえることもない。

「あっ、先輩」

「おう」

片手を上げて短く返す。目もほんの一瞬、合わせる程度。どっちかと言えば挙動不審なのは友沢の方だというくらい、鈴木は平静を保っていた。

告白してしまった夜の翌週半ばのこと。ついに鈴木は友沢とかなり接近することになった。社員食堂で、列の少し前に友沢がいて、そのあとに女子社員が数名きゃいきゃいとおしゃべりをしていたのである。

わざわざ避けるのもむしろおかしいだろうと、すまして並ぶ。緊張と、勝手にわきあがるときめきで心拍数が高めになっているけれど、取り出したスマホを眺めることで気を紛らわせた。

ちらり、と振り返る視線を敏感にキャッチしてしまう。

――いやいや、俺を見ているわけじゃないかもしれないし。

意識をそらそうと、スマホに集中する。並んでいる女子たちが、何度も振り返っては何やら嬉しそうにしているようだが、それは気にならない。

「あのぉ……経営企画課の鈴木さん、ですよね」

女子社員の一人が背の高い鈴木を見上げるようにして話しかけてくる。鈴木はそこで初めて彼女たちを意識したように目を上げた。問いかけにうなずくと、女子たちが短くも黄色い声を上げる。鈴木は少々たじろいだ。それほど自分がモテるという意識はない。

「えっと……?」

「あ、この子なんですけど」

と、一人の女子社員が押し出される。うつむいた顔を横にぶんぶんと振って、いいからいいからと言っているが、友達たちは許すつもりはないらしい。「こんなチャンスないじゃん」「ずっと言いたかったんでしょ」などとけしかけている。当人は、「無理だよ」と消え入りそうな声で拒否し続けていた。彼らの奥に、友沢が見える。

――やめてくれ。

無事にやり過ごせると思っていたのに、まさか友沢のいるところでこんなことになるなんて。どうかわしたものかと眉を寄せたが、相手が否応なしに話しかけてくるのに対応するしか手はなさそうだ。

「鈴木さんって、彼女とか、いるんですか?」

恥ずかしがる当人に代わって、お節介を焼くことにしたらしい友達が問いかけてくる。

「……いや」

小さく苦笑して否定すると、またもやぱっと花が開いたように女子たちの歓声が上がった。

「この子、どうですか」

どう、と聞かれても、今の今まで認識もしたことのない相手だ。正直に言って、そこにいる数人の女子は髪型を変えて私服になったら恐らく見分けがつかないと思った。そもそも、鈴木には好きな人がいる。そう。君たちのすぐ前の列に並んでる。その……男。

――言えるわけないけどな。

困ったように笑って誤魔化していると、世話焼きの駄目押しとばかり、食事を一緒に、と誘われた。この子の良さを知ってもらいたいので、是非二人で、と言う。断ろうとすると、女子たちの目がきつくなった。

「お願いします」

「一回でいいんで」

本人ではない声が口々に鈴木に訴える。迷っていると、声が徐々に大きくなっていった。このままでは騒ぎになりかねない。友沢のことも気になる。まあ食事くらいならいいだろうと鈴木は困り顔ながらも小さく笑みを浮かべてうなずいた。

「分かったよ、じゃあ今度……」

「わあ! ありがとうございます!」

「やったね、良かったじゃん!」

「ありがとうございます、この子も報われます」

嬉しそうにはしゃぐ女子たちに小突かれながら、恥ずかしそうに、でも明らかに嬉しそうな顔で、本人も頭を下げた。社食の列はまだしばらく続く。その間も彼女たちはその話題で盛り上がっていた。いつにするか、どこにするか……人の恋話というのがそんなに嬉しいものなのか。鈴木には女の子の気持ちは良く分からない。それよりもその前にいてやり取りをすっかり聞いていただろう友沢の気持ちの方が気になって仕方ない。女子たちが大きな声を出せば反射的に少しだけ振り返るが、それ以外は前を向いていて、礼儀として聞こえていない振りをしている。もちろん、すぐ後ろでのことだから、すべて聞こえていただろう。友沢はどう思っているのだろうか。友沢を好きだと言ったのに、女の子と食事に行くなんておかしいと思っているのか。誘いに乗ったことを軽蔑しているのか。それとも、どうでもいいと思っているのか。表情に変化はなくとも、鈴木の心中は乱れていた。

鈴木の仕事は社内のデータ解析である。アンケートや聞き取りなどで集められた勤務状況に関する不満や、社内における社員の色々な思いをデータ化し、より良い環境を作るためのの案を作り、上層部とやり取りする。鈴木は課長として集まったデータを分析し、改善案を作るのが主な仕事だった。正直なところ、課長として部下の面倒をみることよりも、データだけを扱っていたい。人と相対するよりも数字を扱う方が得意だし、気が楽だった。今日は朝から膨大なデータをコンピュータ上で扱う作業があり、鈴木は仕事に没頭していた。得意であるとはいっても、画面を長時間見つめていれば目が痛くはなる。

「課長、疲れません?」

斉藤という男性社員が席を立って、話しかけてきた。机に片手をつき、もう片方の手で自分の眉のあたりをつまみ、鈴木の眉間を指差す。言われてみれば力が入っていたなと気づき、鈴木は眼鏡を外して机に置くと、指を組んで両腕をぐっと伸ばした。

「あー……、少し疲れたな」

「良かったらコーヒーでも入れましょうか」

「自分でやるよ。斉藤もまだ終わってないだろ」

自分の仕事をサボりたいんだろという皮肉を軽くこめ、席を立つ。確かに少し過集中になっていたかもしれない。それぞれで勝手に入れることになっているコーヒーサーバーのところへ行き、味気ない紙コップにコーヒーを注いだ。

――三週間、か。

後輩の友沢に勢いで告白してしまい、後悔してからの日数だ。思い出をくれ、などとさらに失態を重ね、まずは一週間やってみせてくれと言われたが、その後どう言いだしたものか悩んでいるうちに時間がどんどん過ぎた。

友沢と会って話す機会もなく、あったことと言えば社員食堂での一件くらい。これで本当に、「元通りの関係でいられる」と証明できたことになるのだろうか。

考えておいてくれと言われた「成功報酬」についても、何も思いつかない。何を言っても嫌がられそうだ。腕を掴んで振り返った時の、あの顔が目に焼きついて離れない。向こうも何も言ってこないし、もうこのまま終わりにした方がいいのだろう。鈴木は深くため息をついた。

「どうしたんですかあ、やっぱ疲れてます?」

先ほどの斉藤が声をかけてくる。来るだろうと思った。お節介な性格なのだ。部署内ではムードメイカーとして役立っていることもある。ただ、放っておいてほしい鈴木にしてみると、ややうっとおしい。

「大丈夫だ」

鈴木は、部下に悩み事を話そうとは思わなかった。特にこんなことは、誰にも言えない。斉藤も同じように紙コップにコーヒーを注いで、一口飲んだ。そして、鈴木を見上げる。

「座ってるとあんま意識しないですけど、こうやって隣に立つと鈴木さんってやっぱ背高いですよね」

鈴木はどうでもいいことだと呆れ、軽く眉を上げるだけで無視すると、コップに残っていたコーヒーを飲み干して席に戻った。手にしたスマホの画面に、メールが来ている表示が出ている。差出人は「友沢涼太」。

――し、仕事の話だろ。

ふわっと浮足立ってしまう自分を落ち着かせようと言い聞かせ、メールの内容を確認する。

『鈴木先輩。

約束、覚えてますか。』

内容はそれだけだった。それで十分だった。鈴木は思わず頭を抱え、嘆息した。なんて返せばいいんだ。すると、続いてもう一通メールが届く。怖い怖いと思いながら、しかし読まないわけにはいかない。

『昼休み、時間ありますか?』

時間はある。覚悟がない。

鈴木はキーを打っては消し、打っては消し……そしてもう一度ため息をついた。

「やっぱなんか悩んでますよねー」

突然声をかけられ、鈴木は思わず息を飲んだ。

「珍しいですね、課長がそんな反応。大丈夫ですか? 俺で良かったら話聞きますけど〜。仕事もありますけどやっぱ課長のことはほっとけないですしね」

サボりたいのが見え見えだ。何か作業で行き詰っているのかもしれない。その息抜きに使われてはたまらないが、このままでは逃がしてもらえそうにない。辟易した鈴木はたばこを吸ってくる、と再度立ち上がった。

体よく逃げだした先、喫煙室に体を滑り込ませる。誰もいない。ほっとしながら窓際に寄りかかり、煙草をくわえた。返信しなければならないが、なんと書いたものか。スマホを睨んで、眼鏡のブリッジを軽く押し上げた。

『昼、表玄関で待ってる。』

――デートかよ……。

『時間あるよ。つきあう』

――偉そうだな。

『OK』

――短すぎるか。

散々悩み、結局『了解。また昼に連絡する』と書いて送った。すぐに返信が来て、この店はどうだと提案される。ご丁寧にリンクつき。早い。それでいいと返し、やり取りは途切れた。深呼吸をするように肺に煙を入れ、数秒溜めてから、紫がかった透明な煙を細く吐き出す。鈴木はうつろな目で外を眺め、どうしたもんかと思案に暮れた。

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