一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 8〜

それから数ヶ月。俺は夜遊びを少々控え、けれど妻とは距離を置いて「その話」には触れないまま、それなりの平和を保って過ごしていた。妻が詰め寄ってさえこなければ、家にいるのもそれほど息苦しくはない。静かなその暮らしがどんな意味をはらんでいるのか、深く考えないようにして過ごす。このままでいられるんじゃないか。そんな感覚さえあった。

蒸し暑い梅雨が、盛夏が、暑さのゆるんだ短い秋が、淡々と過ぎていった。

俺は無意識だった。いや、本当はどこかで察していたのかもしれない。けれど無視していた。一ノ瀬が眉をひそめることに気づかない振りをしていた。気づかない振りをしていたかったのだ。何ヶ月も、何年も、何ならこの先もずっと。けれど終わりは来る。

「なんだよ、そんな怖い顔して」

「先生、もう帰ったら?」

冷たい顔で、一ノ瀬が吐き捨てるように言った時、俺は何も分かっていなかった。今の今まで何事もなく過ごしていて、次はどこに出かけようかと言っていたのに。あまりにも突然で、俺は目をしばたたかせた。

「はあ? なんでだよ。急に……」

「俺も、忙しいんで」

「な、なんだよ、そんなこと一言も言ってなかったじゃねえか」

「忙しいんですよ。帰ってください」

「一ノ瀬、おい」

はっと短く息をつくと、一ノ瀬はあっけに取られて動けなかった俺に立ち上がるよう促した。本当に俺を家から追い出そうとしていることにようやく気付く。なんでいきなりこんなことになっているんだ。頭がまともに働かない。

「一ノ瀬、怒ったなら謝る。だけどちゃんと説明しろよ」

「話したくありません」

いつだって俺が好きで、一生懸命で、俺に合わせて、尻尾を振っていた一ノ瀬。今は冷淡に俺を振りはらおうとしている。あまりの変化についていけない。でも、本当は頭の隅で分かっていた。気づかない振りをしていたことが、無視しようとしていたことが、今はもう目の前に現実として突き付けられたのだ。俺が、一ノ瀬を都合よく利用していたという事実。そのことを認識した俺は、けれどなぜか腹が立ってたまらなかった。

「なんだよ、言わなきゃ分からないだろ。ずっと怒ってたのかよ、なんで言わなかったんだ」

机に乗っていた雑誌をいらだち紛れに床にたたきつける。一ノ瀬は喚く俺に目もくれず、無言でそれを拾い、机に乗せた。食器やビールの缶を片づけ、台所へ向かう。

「こっち向けよ! 嫌だったんなら、言えよ!」

「……」

「楽しそうにしてたじゃねぇか。そんなん、分かんねえよ。ずっと黙ってて、いきなり帰れかよ」

本題はそこじゃないと頭のどこかで誰かが呟いたけれど、血液が沸騰したように熱くて、俺は見当違いの文句を一ノ瀬にぶつけ続けた。一ノ瀬は何も答えず、皿を洗っている。相手にされないことにさらにむかつきは加速し、普段のストレスも相まって俺はもはや理屈も何もない怒りをぶちまけた。文法も怪しい。何かの糸が切れてしまったのだろうか。自分でもどうやったら止まるのか分からなかった。

「はあ……はあ……なんか、言えよ……」

ついに息を切れ、俺は肩を揺らして台所から出てきた一ノ瀬を強く睨んだ。一ノ瀬は俺の荷物をまとめ、両手に抱えて俺の正面に立つ。少し首をかしげたその様子は、ご主人の声が流れてくる蓄音器に耳を傾けたというあの有名な犬に似ている、と、エネルギーが切れたのか俺はやけに冷静に観察した。

そこまで一つも言い返してこなかった一ノ瀬が、ゆっくりと話し始める。

「前に家まで送った時、末永くお幸せにって言いましたけど、あれは本心です」

「……はぁ?」

「先生には幸せになって欲しいんですよ。結婚して、奥さんがいて、何が不満なんですか」

二の句が告げない。これだけ俺の愚痴を聞いていて、そういうことを言うのか。

「酒に酔って、愚痴って。あと何回やれば気が済むんですか。いつまで続けるんですか。……何も解決しない」

かばんと上着を押しつけられ、俺は玄関を押し出された。酸欠なのか、頭が殴られたようにずきずきと痛む。

「もう帰ってください。奥さんとちゃんと話し合ってください。自分のことは自分で、ちゃんとしてください。……俺は、先生の逃げ場所じゃない」

何も言えることはなかった。浅い呼吸を整えるのが精いっぱいで、俺はよろめくように廊下へ出た。謝罪すら口にすることはできなかった。閉まる直前、扉の向こうには一ノ瀬のどうしようもなく悲しげな顔があった。

久しぶりに見たような気がするその顔は何か言いたげで、けれどすべてを諦めたようでもある。ふい、と視線をそらして、妻は呟いた。

「帰ってくると思わなかったし、夕食支度してないよ」

「ああ……いいよ、そんなの。なんか適当に、コンビニでも」

言い知れぬ居心地の悪さの中、二人で夕食の買い出しに行く。コンビニで弁当を買う夕食だなんて、いつ振りだろう。もしかして、結婚してから初めてかもしれない。

帰宅後、がさがさとコンビニ袋を開けていると妻がようやく声を発した。えらく物騒な低さで。

「なんで帰ってきたの」

そんな言い方はないだろう。咄嗟にそんな言葉が頭に浮かぶ。とはいえ、いつものことから考えればその疑問も当然のものかと思い直す。

「まあ、予定が変更になって」

曖昧な言い方でごまかした。まさか本当のことを言えるわけがない。年下の男の好意に甘えてストレス発散のはけ口にして、ついに現実逃避していた事実を指摘されて追い出された……なんて。

「私……ずっと、一人だったんだよ。この家で」

妻にも、事実を告げられる。言い逃れはできない。一ノ瀬に「逃げている」と言われて気づいた。いや、気づくことからも逃げていたのに、突き付けられてどうしようもなくなった。もう、逃げられない。仕方がない。腹をくくるしかない。

「ごめん。一人にさせた。俺が、逃げてた」

「……」

どちらも食べようと言い出さず、コンビニで温めてもらった弁当が少しずつ冷めていく。

「何度も話したけど、うまくいかなかったよな。奈々の気持ちは分かってる。それは……正しいとも思う。多分、子どもがどうってことじゃないんだと思うんだ。分かってほしいんだけど、決してお前が嫌いだってことじゃない。でも、好きなら何でも受け入れられるかって言ったら違うんだよ」

言葉を選びながら、ゆっくりと話す。いつもならすぐにヒステリックになる妻は、何故か今日は俺を見つめたまま、黙って話を聞いている。

「好きかどうかっていう問題と、要望を受け入れるかどうかっていう問題は、少なくとも俺にとっては違うことなんだ」

「……じゃあ、私のことは好きだけど子どもは作らないってこと?」

「今は、まだ」

「じゃあ、いつならいいの」

「それは」

言葉に詰まる。明確に答えることは出来なかった。自信がない。夫としてだって上手くやれているとは言えないのに、この上、親になるだなんて。とてもじゃないけど無理だ。子持ちの先輩には、生まれてから親になっていくのだと言われたけれど、そんなことに挑戦したいと思えないし、ましてや出来るとも思えない。

「……ごめん」

謝るしか出来なかった。妻の目が潤む。傷つけてしまったことに胸が痛む。長い沈黙の末に、妻は分かったと言って部屋に消えた。夕食になるはずだった弁当二つが、机の上ですっかり冷えている。温め直して食べる気はしなかった。

翌日、重い体を引きずって仕事から帰ると、家に妻の姿はなかった。

『しばらく実家に帰ります。また連絡します』

置かれていたメモを手の中でひねくり回す。もう、離婚かな。そうかもしれない。

ソファに横になり、天井に向かって息を吐く。深呼吸のように、何度もそれを繰り返した。

――ほっとしている、のか……?

頭痛がするような気もしたが、そのまま気を失うように寝てしまった。

ソファ近くのフローリングで目を覚ます。体が痛い。固い所で寝たからかと思って立ち上がると、ぐらりと視界がゆがんだ。やばい。これはまずい。明らかに体が熱いのに、悪寒が止まらない。体温計を探す。半透明の引き出しが積み重なっている。整理整頓された状態が好きな彼女の几帳面さをまざまざと見せつけられた気がする。けれど引き出しのどれにも体温計は入っていない。じゃあどこなんだよ。結局のところ彼女に聞かなければ何も分からない自分に嘆息する。しかしまた彼女の整理整頓は彼女自身のためでしかなかったのだろうと思うと、また別の意味でため息が漏れる。

思い当たる他の棚や箱にも見つからなかった体温計を諦め、ベッドまでなんとか辿りつくと、もうほとんど無意識に布団の中に這いこんだ。頭痛がひどい。会社に電話だけはしたが、その後いつ意識を手放したのか、分からない。浅い眠りと覚醒を繰り返す中でいろんな夢を見た。

広い原っぱだ。公園かな。実家から車でちょっと行ったところにある広い公園だろう。たまに父親が車で連れて行ってくれた。俺はそこでレノンと……ああ、レノンはあそこだ。長い毛をひらひらさせてボールを追いかけて走っている。ゴムの固いボールをくわえて俺の元へと戻ってきて……おいおいもっと投げろって言うのか、もう何度も投げてやったじゃないか。レノンが大きくて分厚い前足を俺の両肩に乗せる。嘘だこれは夢だ。だってこれじゃ大きすぎる。芝生に倒された俺の顔をレノンがべろべろなめる。やめろったら。レノンは俺の肩を押しつけて離してくれない。良く見たらレノンじゃない、一ノ瀬じゃないか。何やってるんだ、一ノ瀬こんなところで。

「先生、好きです」

知ってるよ。そんな嬉しそうに尻尾振ってりゃ誰だって分かるよ。だから顔をなめるなよ。べたべたになるだろ。

……目を開けると、そこは薄暗い俺の部屋だった。夢だ。そりゃそうだ。一ノ瀬が俺の顔をなめたりするもんか。でも、べたべたする。何かと思ったら俺は全身にぐっしょり汗をかいていた。肌に張り付く服を引っ張って脱ぎ捨て、布団は裏返す。シーツは面倒だから諦め、着替えも億劫だからそのままもう一度布団にくるまった。

「一人かあ……」

体調が悪い時に一人だと、その孤独さが身にしみる。最悪のタイミングで独りになったなあと痛感して、風邪とは別の意味で頭が痛い。とはいっても、自分の撒いた種だから仕方ない。

「あー……参った」

声にしたらそれがまた弱々しくて、我ながら情けない。

「腹減った……」

ずるりとベッドから落ちるように抜け出すと、冷蔵庫を開ける。彼女はこんなところも綺麗に整理していた。見事に何もない。

まだずきずきと痛む頭、それに重い体をひきずって、外に出た。冬の訪れを感じさせる高い空に、太陽がまばゆく光っている。その明るさに耐え、一歩一歩重い足を必死で動かし、一番近いコンビニまで行くと食料を買い込んだ。こうなりゃ体力の限界に挑戦だ。

家に戻るまで、どれだけ遠かったことか。エレベーターの中で失神するかと思った。頭痛が出かける前の三倍ひどくなっている。

スマホを確認すると同僚から電話が入っていた。そうか、今日はまだ連絡してなかった。メールで今日と、恐らく明日も休むだろうことを伝え、せっかく買ったものを食べる気力も失って、また俺は倒れこんだ。頭の中はもやがかかったようだ。何も考えたくない。今は――。

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