一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 10〜

「どう説明しようかな……えと、彼女は仕事関係で知り合った人の娘さんで。建築の勉強もしているってことで俺の事務所に出入りするようになったんです。それでその……まあ、そういう関係になったっていうか」

言葉を濁す一ノ瀬は、俺に気を使っているのだろう。俺はなんだかどきまぎして目をそらした。

――『そういう関係』か。一ノ瀬はこの子のことが好きになったんだな。

別に、いいじゃないか、と自分に言い聞かせていることに気づく。いやいや。いいじゃないか。うん。だからいいって。そう言ったじゃないか。自分の中で二人の俺が言い合いを始めた。やめろ、これじゃあまるで俺が一ノ瀬に……。

「でも、最初に言ったんですよ。俺は好きな人がいるからって」

一ノ瀬の言葉で我に返る。

好きな人がいる。それはつまり俺のこと、か。最後に見た一ノ瀬はすごく辛そうな顔をしていた。厳しいことを言って俺を傷つけたからだ。好きだから。一ノ瀬の思いを改めて感じる。何かが胸を打った。苦しいような、嬉しいような。え? いや違う。違う。

「違うわ」

彼女が俺の気持ちを代弁したのかと思って驚く。でも、そんなわけはない。

「『好きな人がいる。でも、どうせ未来はないし、もう二度と会わないかもしれない』って言ったのよ」

彼女の言葉に、一ノ瀬は指をこめかみに当てた。否定はできないらしい。

「こう言っちゃ悪いんだけど、あの頃はちょっと自棄《やけ》になってたっていうか、まあ、さみしかったんだよ。桐子のことは好きだけど……」

ゆっくりと、一ノ瀬が言葉を選びながら紡ぐうちに、彼女の顔が歪んでいった。ああ、こういう顔、妻もしていたっけな。そんなことを苦々しく思い出す。罪の意識が俺を苛んだ。

「それで……ですね。桐子が結婚したいって言いだして」

一ノ瀬が俺に向かって説明する。俺は、トラウマのようになっているその単語に、過剰反応してしまう。でも男女で付き合っていれば、やがて結婚するという流れになってくるのは当然といえる。桐子さんもそういう気持ちになったんだろう。だが一ノ瀬は首を振った。

「でも、俺はそういうつもりで付き合ってなかったんで」

「ひどい!」

「いや、だから……信じてくれよ。俺はこの人が好きなんだ」

「信じられるわけないじゃない」

――なるほど、俺を呼んだのはそれを証明するためか。

「私のことが嫌いなの?」

「そうじゃないんだ。ただ俺は本当に」

「嘘よ! 仲のいい先生に頼んだんでしょ」

「違うって」

二人の言い争いはエスカレートしていき、彼女は泣きそうになってきた。

「あの」

黙って見ているのにも耐えられず、俺はついに口を挟んだ。二人の視線が俺に飛んでくる。

「松本さん。信じられないと思う気持ちはよく分かります。俺もずっと、思い違いだろうって思っていましたし、本人にもそう言ってました。でも……一ノ瀬が俺を好きなのは間違いないと思います」

こんなことを力説する羽目になるとは思わなかった。

「俺はそんな、人に好きになってもらえるようないい男ではないですが、一ノ瀬は在学中からずっと変わらず、俺を」

そこまで言って、俺は口をつぐんだ。次にどの単語を選べばいいか迷う。俺を、好きで。それで俺は逃げ続けて、傷つけて……ああ、そうじゃない。それは俺の話であって、一ノ瀬は……。考えがまとまらない。どうしたら彼女を納得させられるだろう。生徒たちに教え諭すようにはいかなかった。

「信じられない」

――やっぱり。

そうだろうと思う。普通に女性と付き合っていた男が、本当は別の男のことが好きだから別れてほしいだなんて、傍から聞いていてもおかしな話だ。

そもそも、俺はこの二人にどうなってほしいんだろうか。

一ノ瀬が俺のことを好きで、結婚したい彼女とはもう別れる、というのを後押しするべきなんだろうか。それより、一ノ瀬を説得するべきなんじゃないだろうか。俺のことを好きでいるより、彼女と結婚した方が幸せ……と、そこまで考えて一ノ瀬の言葉を思い出した。

『先生には幸せになって欲しいんですよ。結婚して、奥さんがいて、何が不満なんですか』

あの時一ノ瀬は俺にそう言った。今まさに俺が抱いている気持ちと同じ。けれどそれは、あの時の俺が否定する。自分を好いてくれる人間がいて、結婚していれば幸せというわけじゃないんだ、と。

……何か、分かった気がした。

上手く言葉にはできないけれど、一ノ瀬に彼女と結婚したらいいと薦めることはできない。

人を好きになるというのがどういうことか、俺はずっとよく分かっていなかった。

その人のために何かしてあげたい、幸せにしてやりたい、それが好きってことなのかと思っていた。

でも、そうじゃない。

いやそれも「好きだからこそ」であって決して嘘じゃないのだけど。

好きっていう感情はきっとそんな簡単なものじゃない。

そこにはひどいわがままも、深い欲望も、ある。独占欲も、支配欲も、承認欲求も、すべて含まれる。

相手の欲求に応えられないとき、それは嫌いだからじゃない。でも、好きなら何でもできるってわけじゃない。君のためならなんでもできる、なんて超人はドラマや映画の中にしかいない。少なくとも俺はそんなすごい人間じゃない。ただの、普通の男だ。

一ノ瀬だって、彼女のことはきっと好きなんだろう。彼女に愛されているのも事実だろう。でも、だから幸せとは限らない。一ノ瀬は……。

「俺は、先生が好きなんだ。ずっと」

絞り出すように、一ノ瀬が吐き出す。

「信じない。だって男だよ。有り得ないでしょ」

早口にそう言って唇を引き結んだ彼女は、一ノ瀬を睨んだ。信じられないのか、信じたくないのか、信じないと言い聞かせているのか。

一ノ瀬が、埒が明かないといった顔で俺を振り返った。

「先生。……キスしていいですか」

「はぁっ?!」

俺と彼女の声が重なる。

「俺が先生のことマジで好きだって証明します」

「いやでもあのそれはちょ……っ」

後ずさった俺の腕を取り、もう一方の手で俺の後頭部を抱え込むようにすると、一ノ瀬は俺にキスをした。いやそんないいもんじゃない。よく唇を奪った、なんて言い方をするけれど、まさにそう。その瞬間、俺は奪われた。一ノ瀬に。目の前で何かが弾けて、火花が散ったように思える。もがいても、一ノ瀬は離してくれない。本気でぶん殴ろうかという考えが頭によぎったけれど、ふと冷静な自分が頭の中で呟いた。

――桐子さんが、これで諦めるかもしれない。

一ノ瀬が彼女とは幸せになれないなら、彼女は早々に諦める方が今後のためにはいいと言える。そう思うと、ここで一ノ瀬を止めない方がいいのかもしれない。

一ノ瀬は俺の手首を掴んでいたけれど、俺の力がゆるんだのが分かったのか、その手を離して俺の腰に回した。俺はそのシャツの生地ごしに一ノ瀬の肩に手を置く。一ノ瀬が俺をぎゅっと強く抱きしめた。俺は見られている恥ずかしさと一ノ瀬のキスの気持ちよさとで頭がばくんばくんと脈打っている。

まだ終わらない。どうしよう。一ノ瀬が舌を絡ませてくる。鼻が俺の頬につくほど唇を深く合わせ、俺の口の中をかき混ぜる。体の中で何かが沸き立つ。ああこれ以上したらどうなってしまうか分からないやばいやばいやばい……脳内に赤信号が灯った瞬間、俺は首を振って一ノ瀬から離れた。

「も、もういいだろっ」

俺の目が、一ノ瀬の舌が糸を引いて離れていくのをスローモーションのように捉えている。俺の口元も濡れている。慌ててそれを手の甲で拭い、荒くなっている息を必死で整えた。心臓がまだうるさい音を立てている。どうして一ノ瀬はこう、エロいキスをするんだろう。うっかり桐子さんの存在を忘れそうになっていたことにひやりとする。

「……なんでなの?」

彼女は目の前の事実に目を見開いていたが、ひきつった顔で一ノ瀬に問いかけた。

「普通に付き合ってて、お父さんだって結婚には前向きで、条件的に何も問題ないじゃん。貴也くんだって私のこと好きって言ってくれたのに。なんで? なんで駄目なの? なんでこんな人」

「失礼なこと言うなよ」

一ノ瀬が彼女の言葉を遮る。有難いが、強く否定も出来ないなと思う。本当に、俺なんかの何がいいんだか。

一ノ瀬はと見れば、俺をまじまじと観察している。なんで好きなのか、改めて考えているのだろうか。いいところがあるって言うなら、俺も知りたい。

「……小学校の時に見た背中に憧れて。高校で先生が赴任してきた時、雷が落ちたみたいだった。見た瞬間、体がしびれてさ。その時は好きとか全然思わなかったけど……きっとあの時、俺の運命は決まったんだ」

「貴也くん、何言ってるの。意味わかんない……」

呆気にとられたような顔で彼女が呟く。気持ちは分かる。衝撃が大きすぎるだろう。

「桐子、ごめん。俺やっぱり先生が好きだから」

「やめて! 貴也くん、自分で言ってたじゃない、『未来なんかない』って! そうよ、男同士で未来なんかあるわけないじゃない!」

口に出した言葉は取り消せない。彼女も、恐らく言ってはいけないことを言ったのだと理解している。けれど、傷ついただろう一ノ瀬は、それでも優しく笑っていた。

「俺に好きな人がいてもいいから、一緒にいたいって言ったよな。俺、桐子に甘えてたよ」

「いいよ……甘えて。私、貴也くんが好きだもん、貴也くんのために出来ることがあるなら何でも」

「うん、ありがとな」

そう言った一ノ瀬の表情には、もう決まった意思が浮かんでいた。半泣きの彼女は、それ以上言わないでくれとでも言うように目線を落とし、首を振った。細くて綺麗な髪がふわふわと揺れる。

「桐子と結婚しても、幸せにしてやれないから」

「やだ!」

いやいやと子どものように首を振る彼女を、一ノ瀬はゆっくり待った。部屋に沈黙が満ち、時計の針だけがかすかに時を刻む音を響かせる。

「これ以上、彼氏ではいられない。ごめんな、桐子……さよなら」

一ノ瀬の低い声。勢いよく顔を上げた彼女は唇をかみしめ、右手を振り上げた。くしゃりと顔を歪め、一ノ瀬の頬を張り飛ばす。

「……っ!」

彼女が無言のままハンドバッグをひったくって家を飛び出していくまで、一ノ瀬ははたかれた体勢のままじっと動かなかった。

玄関扉が閉まり、静寂が訪れる。一ノ瀬はゆっくり立ち上がり、コーヒーカップ三つを台所に運んだ。そしてまだだいぶ残っていたその中身を、シンクに全部ぶちまけた。乱暴にも見える仕草は一ノ瀬の今の気持ちを表しているように思えた。黒いコーヒーと、カフェオレが混じって、おかしな模様を描いて流れていく。

俺は、新しくコーヒーを入れ直した。一ノ瀬の好みはなんだったか。

「……ブラック?」

カップを示して聞くと、カウンターに肘をついた一ノ瀬は力なくうなずいた。

「先生……すみませんでした」

飲み終わったカップを見下ろし、一ノ瀬が謝る。

「いや、いいよ。……ていうか、謝るのは俺の方。ずっと連絡してなかったけど、あの時は俺が悪かった。ごめんな」

目を合わせないまま、一ノ瀬は笑って首を振った。

「ちゃんと謝ってなかったから、ずっとひっかかってた」

「俺こそ、突然あんな風に言ってしまってすみませんでした。後悔しましたよ」

「あの時は痛かったな。顔面パスくらったかと思った」

強いパスを受け取れずに、バスケットボールが顔面に当たる時の痛さは尋常じゃない。

「でも、俺のこと考えて言ってくれたんだと思って、今は感謝してる」

「先生」

「ほんと、大人になったよな。……もう、敵わないな、俺なんか」

「そんなこと」

「そうだって」

『俺なんか』。そんな弱音は好きじゃない。もっと自分に自信を持て、と生徒にもよく言う。けれど今の俺は自分に自信も誇りも持てない。

「先生は、俺の憧れですから」

「やめろよ。俺はそんな男じゃない。妻を幸せにしてやることもできず、お前のことも利用して、傷つけて……」

「そんな言い方しなくていいんです」

「俺に何があるって言うんだ」

つい、語調が荒くなってしまうのを、深呼吸して抑える。短気な自分の性格を呪う。一ノ瀬と喧嘩しに来たわけじゃないんだ、同じ失敗を繰り返すな。

「……そうだ。一応、報告しとく。……妻とは、離婚した」

一ノ瀬が目を見開く。

「ちゃんと話し合ったよ。二人で幸せになる道を探したんだ。……一ノ瀬に言われて、俺なりに考えた。俺は文句を言うばっかりで、自分を甘やかしてた。だからきちんと向き合って、幸せになろうと努力したんだよ。……でも、駄目だった。身体的にも、精神的にも。あいつは折れなかったし、俺のことを諦めた」

今日二回目の長い沈黙が訪れた。居心地の悪さもここに極まれりといったところだ。とうに空になったカップを見つめ、俺は大きく息を吐きだした。さっきの彼女じゃないが「こんな男」に価値があるとは思えない。

「先生」

ぽつり、と一ノ瀬が呟く。

「ん?」

「俺、先生に子供作ろうなんて言わないよ」

「当たり前だ、バカ」

思わず笑ってしまう。

「子作りしようなんて言わない。結婚しようとも言わない。何もしなくていい。ただ……」

「ただ?」

「俺、先生が好きです。ただそれだけ」

久しぶりに見た、ひたむきな目。まっすぐ俺に向けられたその視線は、逸らされることはない。その目で見ないでくれと、何度思ったことだろう。逃げたかった。このまっすぐな瞳から。でも。

「俺はたいした男じゃないし、強くもない。きっと、これからも間違えるし、失敗するけど、それでも……もう逃げるのは嫌だと思ってる。失敗しても、何度でも、踏み出していくしかないんだ」

一ノ瀬が眩しそうに目を細めている。急に気恥ずかしくなってきた。

「そんな強い人っていないんじゃないですか。きっと、揺らいだり迷ったり、時には踏み外したりして……それでも歩いて行くんですよね。いい人間だから好きとか、尊敬できるから好きとか、そんなこと考えてないです。嫌いになろうと思ったって、離れてたって、他に彼女を作っても、でも俺……どうしても、先生のこと、想っちゃうんだ」

聞いた瞬間、思い出した。初めて一ノ瀬が俺に告白した時。一ノ瀬はやはりそう言った。何故だか分からないけれど、涙が出そうになる。

「……でも、この先は分かりません」

「え?」

思わぬ言葉が出て、はっとする。すると、一ノ瀬がしたり顔で笑った。

「俺は十年以上ずっと先生のことが好きですけど、明日になったら飽きるかも。永遠なんてない。そうでしょう?」

一ノ瀬の言う通りだ。俺と妻が誓ったはずの永遠の愛も破綻した。

「そうだよな。恋愛ドラマでハッピーエンドになっても、どろどろの昼ドラになったりするんだもんな」

「そうです。だから。逆に言えば、アンハッピーエンドだとしても、それが続くわけじゃないんですよ、きっと。だから……男同士で未来なんてない、絶対先生には好きになってもらえないって思ってたけど、ないとは言えないかもしれませんよね」

「……えっ?」

「ねぇ、先生。俺と一緒に、ハッピーになってみませんか?」

花開いたように笑う一ノ瀬の視線が俺を貫いて、体にしびれが走った。まるで雷。なんだろう、これは。嫌な予感がする。俺は一ノ瀬から目をそらして、まるで独り言のように呟いた。

「もし、誰かがこの物語を描いているとしたら……ここで『完』がつくんだろうか」

「ハッピーエンドかアンハッピーエンドか、はっきりしてからがいいんじゃないですか」

何となく物騒な言い方で、なのに顔はとてつもなく嬉しそうに、一ノ瀬はソファに座った俺の横に割り込んでくる。よせ。近い。近すぎる。

「どっちにせよ、また変わるかもしれないんだろ」

「俺の、先生の、それぞれの人生は続いて行きますよね。俺、何が起こるか、楽しみにしてます。でもやっぱり……」

一ノ瀬が顔を寄せ、ぎりぎり触れるか触れないかのところでその唇が囁いた。

「読んでる人も、ハッピーエンドの方がいいでしょ」

「……あんまりすごいの、するなよ」

これもあの時のセリフ。俺も良く覚えてるな。そんなことを思いながら目を閉じ、俺は一ノ瀬の首に両腕を回した。

これで終わり。

――これが、始まり。

<完……それとも続く?>   

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