一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 9〜

嫌いになったわけじゃない。上手くいくなら、幸せな生活を取り戻したい。その思いは彼女も同じだった。

話し合いを重ね、妥協点を探る。けれど、彼女は折れなかった。俺との子供が欲しい。

協力しようと努力もしたが、やはりその行為は成功しなかった。男としての能力がなくなったのだろうか。妻はそんな俺に涙を流していたけれど、その涙は自分を可哀想がっているようにも見えた。病院へも行ってみたが、想像通り心因性のもので、ストレスが解消されなければどうしようもないと言われた。子どもが出来なければ妻との仲は解消されない。ストレスがあると子どもは出来ない。堂々巡りの議論はさらに負担を増やす。病院や妻との話し合いに時間が取られ、休日にバスケをする時間もなく、ストレスはより溜まった。時間だけが過ぎていく。

そうして、離婚が成立するまでには数ヶ月かかった。

「マネージャーの言った通り、次はいよいよ大会だ。うん。がんばろう。大丈夫だよ、お前たちなら」

「はい!」

「試合までしっかり体を休めるように。夜更かしするなよ。あとは、念のためプリントよく読んどけ。じゃ、今日はこれで解散。お疲れ。気をつけて帰れよ」

「あざっした!」

生徒たちが散っていく。その後ろ姿を見送り、嘆息した。

――仕事、終了。

自分の中で何かのスイッチが切れる感覚があった。途端、どっと疲れがのしかかる。いかんいかん。生徒は帰ったが、まだ仕事は残ってるんだ。用具室のチェックを済ませてから職員室の荷物を取りに行き、鍵を閉めるために、もう一度体育館へ戻った。

真っ暗な体育館はしんと静まり返っている。衝動的に中に入り、電気をつけた。ボールを一つ取り出し、ゆっくりつく。そのまま軽く走ると、きゅっと床が鳴った。バスケシューズと床がこすれるこの音が、好きだ。

バスケをしている時はいい。何も考えずに済むから。

離婚して以来、夜一人でいるとつい考えごとをしてしまって寝つけなくなった。そうして必ず胸が苦しくなる。自分がしでかしたことを考えてしまって、どうしようもない。俺は無自覚に、いや本当は分かっていながら、あまりにも単純に、一ノ瀬をストレスのはけ口にしていた。妻のことも幸せにしてやれなかった。逃げてばかりいた俺は、自分自身の勝手な行動で、妻と一ノ瀬の二人ともを傷つけた。俺がそれで苦しむのは自業自得だ。分かっている。辛いのは俺じゃない。

だからと言って平気な顔してはいられなかった。寝不足も続いている。こうして、バスケをしている時だけは気が紛れる。ゴール下まで走ってシュートを打つ。ボールがネットを揺らし、胸のすくような音がした。ボールを拾い、もう一度。今度は外れた。反対側のゴールまでドリブルし、レイアップを打つ。決まった。成功率を上げることに集中する。一番得意なレイアップをひたすら繰り返す。体はきつくなっていくけれど、やめられなかった。

「……はっ……はあ……っ、はあっ」

けれどやがて物理的限界がきた。

――もう出来ねぇか。

ボールを放り出し、体育館の床に転がる。やけに白い体育館の照明が眩しい。無理やり見ていたら、目が痛くなった。

――何やってんだろな、俺。

手の甲をぎゅっとつぶった目に押しつける。荒い息が徐々に治まるのを感じながらじっとしていると、鞄の中で電話が鳴った。

――マネージャーか?

慌てて起き上り、息を整えながら鞄を探る。画面に「一ノ瀬」の表示。俺は眉を寄せる。あれから一切連絡はしていない。向こうからも、ない。俺の方は、申し訳なく思いながら、謝らなければと思いながら、妻と離婚したことをどう報告したものか悩んで連絡できないでいた。報告の義務はあると思うけれど、だからと言って……。今更、何を話したらいいのか。会うとしても、どういう顔で会えばいいのか。そもそも、俺とあいつは教師と元生徒。個人的に会う理由もないはずで。

「もしもし? 先生?」

「あ、ああ……悪い」

「今、いいですか?」

「ん、ああ」

間抜けな声で曖昧に返答する。一ノ瀬もどことなくぎごちない気がするが、何を考えているのかは分からない。顔が見えないというのはもどかしいものだ。

「あのですね、申し訳ないんですけど……」

今から家に来てくれという。会ってほしい人がいる、と。

――なんだなんだ、どういう話だ。

その言葉のチョイスは、ごく普通に考えれば「お付き合いしている人がいる」とか「結婚する」という意味だろう。けれど一ノ瀬の声にそういったニュアンスはなかった。

「いきなりでホントすみません。でも……助けてほしいんです」

弱っているというか、疲れているというか、声に力がない。俺はいぶかしみながらも一ノ瀬のマンションへ向かった。

部屋の扉を開けた途端、顔を出した一ノ瀬は安心したようにほっと息を吐いた。

「すみません、急に呼び出して」

部屋に入ると、中には一人の女性がいた。年は大体一ノ瀬と同じくらいだろうか。女性の年齢は一見しても断定はできないが、恐らく二十代という風に見える。

「初めまして、宮田です」

彼女、なんだろうか。展開が読めないながら、ひとまず頭を下げる。相手も礼儀正しく頭を下げたが、上がってきた視線の強さにたじろいだ。

「本当に男の人だったんですね」

なんだろうこの挑戦的な感じは。俺は思わず一ノ瀬を振り返った。

「すみません」

一ノ瀬は困ったような、恥ずかしそうな顔で、コーヒーを淹れてきます、とその場を去った。

「……松本桐子《とうこ》です。貴也くんとお付き合いしてます」

やはり『彼女』か。少なくとも好意的とは言い難いが、俺は何を言えばいいか分からず、そうですかとうなずいて見せた。一ノ瀬は俺に何を頼もうというのだろう。何に巻き込まれたのかまだ把握できないでいる俺は彼女と向き合う。しばらくの間沈黙が続いたが、やがて彼女は口を開いた。

「あの」

「はい?」

恐る恐る返すと、相手は唇を少しなめて逡巡してから、意を決したように言った。問いかけるように。確認するように。

「貴也くんは元生徒、なんですよね」

「そうです。僕は今も教師ですが、一ノ瀬は卒業しましたから」

「それだけですか」

「ふぇっ?」

おかしな声が出た。それだけ、とはどういう意味だ。深い意味があるのか、ないのか。彼女は何を知っていて、何を聞こうとしているのか。言い淀んでいると、さらに畳みかけてくる。

「教師と生徒以上の関係なんですか」

「いや、その」

動転して鼓動が速くなる。違う、違う。そんなんじゃない。俺と一ノ瀬は、ただの、ただの……。

「やめろよ」

コーヒーカップを三つ乗せたお盆を手にして、一ノ瀬が割って入った。

「すみません、先生。……あ、これどうぞ」

受け取ったカップのコーヒーから湯気が立ち上っている。俺が口をつけると、一ノ瀬も自分のコーヒーを少し飲んだ。彼女の前にはミルク入りのものが置いてある。それを見て気付いた。俺がもらったのは、いつも飲んでいたミルク抜き砂糖入りのコーヒーだったことに。一ノ瀬が、ちゃんと好みを考慮してコーヒーを入れているということに。

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