一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 7〜

人は何を求めて生きているのだろう。大学では哲学や社会倫理を学んだけれど、何をもって幸せというのかは人それぞれだし、しかもそれは時と場合によってコロコロと変わる。何があれば幸せと定義づけることは難しい。けれど必要なものの中に、安心感というのが入っている確率は高い。一ノ瀬は俺の嫌がることをしない。一ノ瀬といる時間が、俺には安心できる時間だった。

いつもいつも一ノ瀬の部屋というのも悪い。けれどいつか飲み過ぎたホテルのバーみたいなところでは高すぎる。というわけで今日は居酒屋へ来た。何杯飲んだかはもうあやふやだ。俺はコップに残った安酒をあおって言った。

「もう一杯飲もう」

「ちょっと先生、明日も仕事でしょ」

「あー、俺ももう駄目だな、元生徒に説教されるようじゃ」

自嘲して薄ら笑いを浮かべ、机に顔を伏せる。一ノ瀬の吐息は聞こえない振りをした。

「そろそろ帰りましょう、ね、先生。送っていきますから」

「ばーか、先生が生徒に送ってもらうなんておかしいだろぉ」

「もう生徒じゃないですよ」

「なんだよお前、俺は子供のままですとかって言ってたくせにー。都合がいい時だけ大人になりやがって」

「はいはいすみませんね、ほら、立ってくださいよ」

腕を掴まれ、無理に立たせられる。仕方がないと諦めるが、いまいち足に力が入らない。なんとか踏ん張って荷物を抱え、会計を済ませて外に出ると街のざわめきが耳に流れ込んだ。夜風がぬるりとしている。

「もう、春かあ」

三月初旬の夜空を見上げると、雲がかかって霞んでいた。春というほど暖かくもない日が続いていたけれど、時折今日みたいに暖かい日もある。これなら公園のベンチで寝ても死なないかもしれない。そんなことを考えていると一ノ瀬に背中を軽く押され、俺たちは駅へと歩き出した。

「奥さん、怒ってますよきっと」

「あー?」

「こんなしょっちゅう帰りが遅くて……待ってる人は辛いんじゃないですか」

「お前、あいつの味方かよ」

「そんなんじゃないですけど」

「ちゃんとメール入れたから平気だよ」

「そうじゃなくて。夜遊びもほどほどにしといた方がいいと思いますよ」

「だからー、いいの! どーせ帰ったって喧嘩ばっかなんだから」

大声で返すと、一ノ瀬は黙った。もうこれ以上俺を責めてくれるな。俺は酒に酔った頭でそんなことを思い、けれど口にはせずにふらつく足で電車に乗った。一ノ瀬がドアの前で心配げなまなざしを向けている。

「だぁいじょぶだって! ちゃんと帰るし」

「……」

不満そうな顔で、眉を寄せる一ノ瀬。安心させようと、俺はことさら明るい声を出した。

「またなー」

手を挙げて挨拶しようとしたら、コートに鞄がぶつかって揺れ、それを抑えようとした反動で体がぐらりと揺れた。すぐ横にある手すりに掴まろうとしたが手は言うことをきかず、手すりをすり抜けてしまう。

「……っとぉ」

倒れまいと足を踏み出し、ホームに片足を下ろすと、ちょうど発車のベルが鳴った。

「やっぱ、家まで送ります」

そう言うと、一ノ瀬は俺を車内に体ごと押し戻し、一緒に乗り込んだ。ドアが閉まる。

「大丈夫だってのに」

「あんまり、そうは見えませんから」

「けっ」

扉ぎりぎりに立っている一ノ瀬の肩が目の前にある。俺はつい、よろりとそれにもたれた。安定感がすごい。いいなぁ、俺もこんな身長欲しかった。

「あーあ……疲れた」

「お疲れさまです」

俺は単なる安心が欲しいのか。それとも別の何かが欲しいのか。妻と二人で「幸せ」に辿りつけるのか。一ノ瀬はどうするんだろう。一ノ瀬にとっての幸せは何なのか。考えても、答えは出ない。混乱する糸はもつれを深めるばかりだ。

このままでいたい。

このまま、ちょっと酔ったまま、暖かな電車で揺られていたい。

ふと、間違いに気づいた。頭を男の肩に乗せてるなんて、他の人が見たら絶対おかしい。これじゃあまるでホモのカップルだ。嫌だ嫌だ、俺はそんなんじゃない。ああ、間違えた。酔っぱらってるせいだ。重い頭を持ち上げ、手で一ノ瀬を押し返すようにして一歩離れる。よし、これでいい。

「寄っかかってていいのに」

「嫌だ」

突き放すように言うと、一ノ瀬は少しさみしげな顔をして、でもそれ以上は何も言わなかった。電車は黙りこんだ俺たちを乗せて、夜の街を走っていく。

「すみません、遅くまで」

ぺこりと一ノ瀬が頭を下げる。妻は営業的笑顔を浮かべてそれに応えた。

「いえ、こちらこそすみません。いつも彼がお世話になってるみたいで。今日も付き合わせてしまって」

一ノ瀬は、いえいえと首を振って応えた。

「奥さん、綺麗な方で驚きました」

「そんなー」

妻が否定しながら嬉しそうに笑っている。茶番だ。こんな遅くまでと怒っているはずなのに。なんでそんな社交的な笑みを作れるんだろう。女って怖い。

妻は、目の前の若い男が俺を好きだなんてことは想像だにしないだろう。分かるわけがない。俺がこいつとキスしたことがあるのも、知らない。それも、二度も。それを俺が気持よく思ったことも。

一ノ瀬はどう思っているのだろうか。恋敵といえば恋敵。けれど相手は俺の妻でもあって、負けが確定しているとも言える。眠気と酩酊とで鈍くなった目を一ノ瀬に向ける。一ノ瀬はにこやかに笑って――これも社交辞令か――妻に言い放った。

「頻繁に先生を連れ出しててすみません。でも先生、いつものろけてるんですよ」

唐突な妄言に目をむく。

「は? そんなん言ったことないだろ」

「奥さんのこと本当に大事にしていると思います。どうぞ、末永くお幸せに」

そう言いながら一ノ瀬は、裏などあるとは思えないほど明るく笑っている。何を言ってるんだ。どういうつもりなんだ。一ノ瀬の意図が読めない。

「じゃあこれで失礼します」

軽く頭を下げて立ち去った一ノ瀬を、俺は茫然と見送った。なんだか酔いが醒めてしまったような気分だ。妻が感心したようにうなずいている。

「若いのにちゃんとしてるよね。背も高くて、なんか素敵」

お前も、何を言ってるんだ。

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