寝室に入ると、一ノ瀬がうつむいたまま両手の指を合わせてもじもじとしている。
「……気持ち悪いんだよ」
「ひどいっす」
「なんだよ、何か言いたいことあんのか」
「いや、あの、俺、寝るときはいつも服脱いじゃうけど、今日はTシャツ着てた方がいいよなー……とか」
大の男が照れながらそんなことを言うのを見る羽目になるとは。
「……」
無言でひらひらと手を振ってやると、一ノ瀬は恥ずかしそうに笑って、がばっと上着を脱いだ。ズボンにも手をかけたが、それはさすがにやめておくらしい。助かった。俺はいたたまれなくなって背を向け、借りたスウェットに着替えた。
トイレなどを済ませると、もう布団に入るしかやることが残っていない。……空気が重い。一ノ瀬は明らかに困っている。もちろん、俺も。どうすればいいんだ、この雰囲気。
「えと、先生、お先にどうぞ」
男に布団を指し示される。なんだこれ、なんだこの図、おかしいだろ。頭が痛くなってきた。耐えられない。
「悪いけど、やっぱなんか着てくれ」
「あー、はい。やっぱそうですよね」
そそくさと一ノ瀬がTシャツをかぶる。その隙を見て、俺はベッドにもぐりこんだ。前に酔っぱらってこの布団で寝たときを思い出した。あの時と同じ匂い。一ノ瀬の匂いだ。
「お邪魔しまーす」
遠慮がちな声が聞こえ、背後で布団を持ち上げる気配がし、ベッドがぎし、と音を立てた。マットレスが沈みこむ。ひんやりとしていた布団にぬくもりが加わる。ガキでもないのに、やけに緊張してしまう。手のひらがじわりと湿る。一ノ瀬に背を向け、短く告げた。
「じゃな、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
挨拶の後も、俺たちは無言のまま起きていた。時間だけが過ぎていく。
「……眠れません、ね」
低い声が呟く。
「ん。……なんか、悪い」
謝ると、小さな笑いが聞こえた。
「良く考えたら、俺が先生と一緒にいて眠れるわけないんです」
確かにそうだ。相手をベッドで寝かせるということに執着して、俺も一ノ瀬もそこに考えが及ばなかった。
「先生は、寝ていいんですよ」
「ああ」
「襲ったりしませんから」
「はは……」
「……」
一ノ瀬が押し黙った。無言でも、感じる気配というのはある。一ノ瀬が何かを言おうとして迷っているのが分かった。
「何か、眠れない理由があるんですか?」
静かに問いかけられ、心が揺らぐ。ここまで言わないできたのに。背後で一ノ瀬が俺に触れようとして躊躇い、手を引っ込めたのが何故だか分かった。揺らいだものが徐々に倒れていくイメージが浮かぶ。砂の山にさした棒が、砂が崩れるに従ってゆるゆると倒れていく。ああ、言わないでおこうと思ったのに。
「怖いんだ」
「え?」
「夜、あいつが横にいると怖い。誘われるんだ。子供を作ろう、って。それが怖い」
一ノ瀬は何も言わない。どん引きしてるのかもしれない。けれど一度開いてしまった口は閉じられなかった。
「今朝も出がけに『今日は排卵日だから』とか言われて。ひくだろ。それに俺、駄目なんだよ。ここんとこさ……やろうとしても、出来なくて」
性格的に自信家だという自覚はある。昔から成績も悪くなかったし、バスケもあった。女の子にモテなかったわけでもないし、教職を取るのも、就職も、スムーズだった。うまくやってる自信があった。それがここにきて明らかにつまづいている。何度かは妻の期待に応えようとがんばってみたが、上手くいかなかった。まさかと思ったけれど、失敗が重なると挑戦する気にもなれなくなる。俺の男としての自信はすっかり喪失してしまっていた。
「……俺、先生の嫌がることはしないって、誓いました」
そうだろうとは思ったけれど、やはり一ノ瀬はそのまま俺をほうっておきはしなかった。
「だから、嫌だったら答えなくていいです」
「ああ」
「……勃たないんですか?」
いきなり核心を突くな。軽いめまいを覚えながら、深夜という、何時だかも判然としないこの時間帯の妙な空気が俺の口を軽くする。
「試す気にもなれない」
「もう長いんですか」
「最後にしたの、いつだったかな……思い出せない」
「辛いですか」
「辛いっていうか……疲れる。毎日。すっきりしないってのはあるかな」
身じろぐと、背中が束の間、一ノ瀬に触れた。体がぞくっと震える。どういうことなんだ。いや、何でもない。俺はその正体が何かを考えまいとして会話を再開させた。
「男として自信なくすってきついよ」
「他の人と試したりとかは」
「そりゃまずいだろ」
「まあ、そうですけど……」
「……」
「俺が女の子だったらな」
「は?」
「試してあげられるのに」
エロゲーや漫画のような展開を想像させる。一ノ瀬が女の子……思わずその絵を想像して、噴き出してしまう。うっとおしいほど重苦しい空気が、一瞬にして吹き飛んだ。
「お前が女って無理がありすぎんだろ!」
「リアルに想像しました?」
「想像させるなよ、気持ち悪ぃ」
「あたし、たかこ」
「ぶはっ……!」
こんなに馬鹿げたことで、こんなに大笑いするなんて。くだらないと思いながら、ひとしきり笑い合うと、なんだかすっきりしていた。
「この話、明日までに忘れろよな。……おやすみ」
一ノ瀬の返事は待たずに目を閉じる。寝よう。今日は大丈夫なんだから。
……そして目を開けた俺は、朝になっていることに気付いた。いつ寝たんだろう。夢も見ずにぐっすり寝ていたらしい。こんな夜は久しぶりだった。