妻との話し合いは平行線のままだった。
子どもがほしい。
今はまだ無理。
なぜ? 私を愛していないから?
そうじゃない。自信がないんだ。
大丈夫よ。
そんな会話を繰り返す。疲れる。 俺はこれまでずっと彼女の期待に応えてきた。手をつなぎたいと言えばつなぎ、キスして欲しがれば応え、布団に入れば抱いて。彼女を愛すればこそだ。そして何より、それが平和への近道だったからだ。
だけど、この問題は彼女と俺だけの話じゃない。もう一人の人間が絡んでくる。夫婦二人ではなく、家族三人になるのだ。俺には出来ると思えない。やってみましたが出来ませんでした、だからやめます、というわけにもいかない。
結婚なら、勢いですることもできる。実際、そういう人も多いはずだ。俺だってそうじゃないとは言い切れない。そして後悔して、やめることだってある。やめたいとは思っていないけど。でも、子供は産んでからやめますというわけにいかないじゃないか。そういう大きな問題なのに、愛情の問題とすり替える彼女はどうかしている。それをどう説明すればいいのか。
噛み合わない会話は疲労を増加させ、言葉をきつくさせる。俺たちは出口のない迷路に迷い込んだ。当然の帰結として、家に帰りたくない日が増えていく。
一ノ瀬は、俺が呼び出せばいつでも飛んできた。嬉しそうな顔で、尻尾を振って。仕事が忙しい時期はもちろん遠慮するけれど、向こうが俺を断ることはほとんどなかった。一ノ瀬は俺の知らない世界の話をして、俺はそれを聞いているのが楽しかった。設計の仕事をしているので、休みの日には一緒に建物を巡ってみたり、美術館に行ったりもした。そういう時間は、バスケ一本で過ごしてきた俺には新鮮だった。田町先輩や同僚やバスケ友達とも飲むけれど、断らない一ノ瀬は誘いやすい相手だった。そしてあれ以来、俺には指一本触れてこない。俺の足は自然と一ノ瀬の家へ向かうようになっていた。
「いいんですか、奥さん」
「喧嘩して疲れるよりいいだろ」
一ノ瀬の部屋はいつも大体散らかっていた。俺の家は綺麗好きの妻がいつも片づけろとうるさく、散らかっていないけれど、俺にとって、この部屋のが居心地よかったりする。図々しくもソファにごろりと横になり、デリバリーのピザの箱を見やる。うちでは取らない。奈々が必ず料理を作るからだ。健康のため。専業主婦だし、私頑張る。うん、それは偉い。偉いけどな。うん、ピザってうまいよな。めっちゃ体に悪くてな。ああ、くつろぐ。
床にあぐらをかいている一ノ瀬がコーラをのどに流し込んだ。
「ここんとこしょっちゅう遅くなってるじゃないですか。今日はもう帰った方が良くないですか」
「いいんだよ」
今日はいつもにも増して帰りたくなかった。理由ははっきりしている。出がけに「今日は早く帰ってね。排卵日だから」と念を押されたからだ。気が重いったらない。セックスというものは、愛を確かめる行為じゃなかったか。若かったころは溜まったものを吐き出すという側面も強かったけれど、三十も過ぎた今ではそれよりも肌を重ねてお互いの気持ちを寄り添わせる意味合いが強いと思っていた。けれど、今の妻は違う。
「無理だよなー……」
「はい?」
「何でもない」
妻が子供を欲しがっているけれど俺は乗り気になれなくて、という話はしていた。とはいえ、余り具体的なことを話す気にはなれない。俺は大きく嘆息した。
「酒、あるか」
「え」
「飲みたい気分なんだよ。コーラじゃ足りない」
「もう終電ないんですよ。まあ、バイクで送れますけど」
「いらねえ。今日は泊まる」
「えっ」
「いいだろ」
断らないのは分かっている。だが思いのほか戸惑った顔で、いいですけど、と一ノ瀬は言った。俺はクッションを抱きかかえて転がる。
「ここでいいからさ」
「それは駄目です、ベッドで寝てください」
「いいって」
「駄目ですって」
「お前が寝られなくなるだろ。……迷惑かけてる自覚はあるんだよ。しょっちゅう呼び出して付き合わせてるしさ、今日も家に押しかけて、急に泊まるとかさ、悪いとは思ってる。だからこれ以上、ベッド取り上げるとかしたくない。それより飲もうぜ。ジャイルドライブかけろよ」
一ノ瀬がセットアップするとすぐにスピーカーからアップテンポのナンバーが流れ出す。俺はビールを開け、まだ足りないと言って日本酒も注いだ。もう一杯。さらに。……付き合って飲んでいた一ノ瀬が赤い顔で俺を見上げている。
「せんせー、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
ここのところ不眠が続いていて、飲まないと眠れない。けれど弱音を吐きたくはなかった。
「お前はもう寝ろよ。悪かったな、こんな遅くまで」
「そんなのいいですけど……先生は?」
「ん、俺はもう少し」
「じゃあ付き合いますよ」
「いいって」
「俺、そこのソファで寝ますから、先生は俺のベッド使ってください」
「いいよ、お前がベッドで寝ろよ」
「駄目ですって」
「俺はどこでもいいんだよ。……どうせ寝られないんだから」
独りごちたつもりだったが、一ノ瀬には聞こえたらしい。
「眠れない? どうしてっすか」
あけすけに聞いてくる一ノ瀬も、俺も、酔っぱらっている。見上げられる視線をよけたくて、ソファに座り直し、肘掛けに肘をついて顎を乗せた。
「……何でもないよ」
今日何度めだろう。言いかけては、やっぱり言いたくないと口をつぐむ。愚痴は嫌いだ。言うのも、聞くのも。楽しい気分にはならない。でも。誰かに理解してほしいとも思う。いや、やっぱり駄目だ。
「酒飲んだし、今日は多分眠れる」
「じゃあ、ベッドで」
「だから俺はいいって」
「駄目ですって」
「俺がソファ」
「嫌です」
言いかけた俺の言葉をさえぎって、一ノ瀬が強い口調で言った。首を横に振って見せる。
「強情だな」
「知ってるでしょう。諦めませんよ、俺。……それか」
別の提案があるような口ぶりに、俺は首をかしげて続きを促す。
「どっちも譲らないなら、ベッドで一緒に寝ます?」
「はぁ?! そんなことできるわけねえだろ」
「男同士じゃないですかー」
笑いながら、わざとらしく棒読みで一ノ瀬が言う。
「お前がそれ言うか」
「いや、割と本気です。一応クイーンサイズではあるし。俺、何もしません」
そんなことは到底信用ならないので目を細めて一ノ瀬を睨みつけるが、相手は「本当です」と大きくうなずいた。
「反省しましたから。先生に嫌われるくらいなら、俺、なんだって我慢します。信用できなかったら両手足縛ります?」
極端な意見を一蹴しつつ、しばし考え込む。終電もないから一人で帰るわけにもいかないし、バイクで送らせれば一ノ瀬により負担をかけることになる。カプセルホテルに泊まるとか漫画喫茶やファミレスで夜明かしすると言っても、俺が疲れることは一ノ瀬が許さないだろう。そしてどちらも譲らないとなれば、選択肢は一つしか残されていないように思えた。諦めて、受け入れるしかないのか。手を出さないという一ノ瀬の言葉を信じるしかない。いざとなればぶん殴って逃げ出そう。俺は心の中でそう決めて、一ノ瀬に告げた。
「俺の嫌がることは絶対にしない。そうだな?」
「はい」
「約束は守れよ」
「はい」
嬉しさを隠しきれないやつの顔に一抹の不安が残ったが、俺たちの結論はひとまず同じベッドで寝るということになった。