一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 4〜

目をそらすと、一ノ瀬の手が伸びて来て、俺の頬に触れた。指先が顔の方向を変えさせる。抵抗してまた横を向いたけれど、同じこと。何度やっても同じだった。俺たちはむきになって、横を向いたり、正面に向けさせたりを繰り返した。

「先生」

ついに一ノ瀬が両手で俺の顔を包んだ。

「やめろよ」

このままにしていたらどうなるか、それは容易に想像できる。それを受け入れるわけにはいかない。抵抗すべきだ。一ノ瀬の手首をつかみ、やめさせようとするけれど、本気の力が入らない。

一ノ瀬が顔を近づける。大きな体が影になって、覆いかぶさってくる。俺は後ろに倒れそうになって、咄嗟に一ノ瀬の手首をつかんでいた手を離し、床について体を支えた。一ノ瀬は俺にまたがるようにして、押し倒してくる。結局、俺はほとんど床に寝そべり、上半身だけをかろうじて起こしている、というところまで倒された。一ノ瀬は右手を俺の頬に当てたまま、左手で体を支えている。

「先生は浮気してない。さっき電話したときは、本当に浮気してなかった。でも、俺がキスしたら、浮気したことになっちゃうかな」

俺の耳元まで口を近づけ、一ノ瀬が囁く。少し長めの前髪が、顔に当たってくすぐったい。

「やめろってんだよ」

「逃げようと思えば逃げられるはずですよ」

目の奥で、どくっどくっと脈拍が打っている。鼓動が早まっている。

――緊張してるせいだ。あるいは、怖いんだ。

誰に言い聞かせているのか、精一杯の言い訳をする。でも、分かってる。これは興奮してるからだ。ドキドキしている。妻に対する背徳感がそうさせるのか。それとも、何か別の感情が俺をときめかせているのか。

――男相手に、俺は何を考えてるんだ。

頭の中とは裏腹に、心臓はもはや早鐘のようだった。ごくりとつばを飲み込む。

「大人になった? 嘘です。俺は子どものままです。あの頃の、ひきょう者のまま」

「一ノ瀬」

「先生のこと助けたお礼に、キスさせてください」

「……」

「嫌ですか。男となんか、できませんか。俺とは……できませんか。それとも奥さんを裏切れない?」

一ノ瀬が矢継ぎ早に迫る。耐えられない。

「やめろ!」

「やっぱ、ガキのころと同じですね。俺、先生を困らせてる」

苦し気に顔を歪め、一ノ瀬は額を俺の額にこすりつけた。

「終わったって……ふっきれたって思ってた。俺もそれなりに経験を積んで、十代の頃の恋なんて若気の至りだったって笑ってた。……でも」

声が震えている。煙を吐き出しながら見せた大人の余裕は消え失せている。切羽詰まった一ノ瀬を間近で見ていると、俺まで苦しくなってくる。

「駄目だよ。先生のそばにいたら、抑制がきかなくなる。我慢……できない。駄目だって分かってるのに、体がいう事きかないんだ」

無理やり引きはがすように、一ノ瀬の右手がゆっくりと俺の頬から離れる。切ない顔で、一ノ瀬はうなだれた。

「好きです……先生。今も。ずっと。好きだ」

両手で顔を覆い、漏れ出る声が震えている。泣いてる? まさか。

「一回、だけなら」

俺の口から出た言葉に、俺自身が驚く。一ノ瀬が顔を上げた。

「……! 本当に?」

「それでお前が本当にいいなら……余計に苦しくなるなら止めといた方が」

言いかけた俺の唇は素早くふさがれていた。目をつぶる暇もなかった。一ノ瀬は自分の唇を俺の唇に合わせ、荒々しく、深く、俺を求める。必死な思いが伝わるキスだった。ようやく閉じたまぶたの裏がちかちかして、息が出来なくなる。一ノ瀬は唇を離さないようにしながら、何度も、何度も、キスをし直す。

――ズルい。こんなキス……。

脳裏に、初めてキスした時のことがフラッシュバックした。最初は恐る恐る、それから急に強く。あの時と同じだ。いや違う。何も知らなかった頃のキスでもあんなにくらくらしたのに、今の一ノ瀬は経験を積んで、あの頃より格段にうまくなっている。対して、こっちはそれほどレベルが上がるような経験はしていない。

――駄目だ、負ける。

誘惑に勝てない。唇を舌でなぞられる。気持ちいい。そう思ってしまう。何も考えず、すべてを投げ出してしまいたい。キスだけなら、男も女もない。いっそ委ねてしまおうか。

両肘で支えていた力を抜き、背中を完全に床につけた。一ノ瀬も俺の動きに従って、体を重ねてくる。手を一ノ瀬の背中に回した。心臓が破裂しそうだ。それからそっと口を開き、一ノ瀬に、舌で触れた。密着した一ノ瀬の体が一瞬こわばり、キスが止まる。それから俺たちは舌を絡ませ、長い長いキスを交わした。

「はぁ……っ、はぁ」

一ノ瀬が体を離し、両腕で体を支えて俺を上から見下ろしている。それは分かっていたが、俺は手の甲で顔を隠して横たわっていたので、目では見なかった。恥ずかしすぎて、とても顔を晒すことなどできない。

「ごめん、先生。一度だけって言われたのに、俺、夢中になって……すみませんでした」

「……」

「先生?」

「こんなキス、したことねぇ」

腰が、ぎゅっと抱きしめられる。一ノ瀬は俺の肩に顔をうずめて、ぐりぐりと押しつけてくる。きっと尻尾がびゅんびゅん風を切ってるに違いない。

「好きです。好きだよ……!」

腿の間にはまった足を絡めて、一ノ瀬が腰を押しつける。腿の内側に、固い感触。俺は瞬時に我に返った。そうだった、こいつは男だった。

「おい!」

足を引き抜こうとするけれど、一ノ瀬はさせまいとしてすがる。

「仕方ないでしょ、男だもん」

「だもん、じゃねえ! 離せっ、そこまで許してねえぞ」

「先生、好きです」

「お前……なんっも変わってねえな! 離せって!」

力を込めて暴れると、さすがに一ノ瀬もこらえきれなくなる。強引に体を離し、後ずさると不服そうな顔を見せた。

「きっ、キスだけって言ったろ!」

「でも、先生だってあんな感じて……」

「言うなーっ!」

両耳を手でふさぐ。口にされるととんでもなく恥ずかしい。事実じゃないと反論はできない。それだけに余計辛い。

「もう、帰る」

「えええ、そんな。もうちょっといいでしょ。もう、変なことしないから」

「嘘つけっ」

「本当ですって」

「信用ならん」

勢いよく立ち上がり、俺は上着を探した。昨夜どこで脱いだかと考えたら、一ノ瀬の寝室だと思い当たる。部屋に行って、ベッドを探すと布団と絡まっていた上着を発見した。

「あった」

上着を手に振り返ると、間近に一ノ瀬が立っている。

「うっわ……」

「帰らないでください」

突然の出現に驚き、バランスを崩した俺はベッドに尻をついてしまう。一ノ瀬が俺の太腿に足を乗せて動けないようにした。大きな男にのしかかられると、恐怖すら覚える。

「やめろ、やめろって!」

ジタバタ暴れるが、一ノ瀬は俺の両腕を押さえ、俺の両足の間に体を割り込ませて押さえつけた。

「お願いです、先生が嫌がることしないから」

「もう既にしてるだろうが!」

「俺のベッドで先生が寝てたなんて考えるだけで興奮しちゃいます」

「なんてこと言うんだ、そんな、何を、お前、馬鹿言うな」

思考も言葉も支離滅裂だ。身の危険を感じて極まりない。もうしゃべるのはやめて、体に力を入れることに集中した。何とかひっくり返そうと渾身の力をこめると、どうやら一ノ瀬をどかすことに成功する。男で良かった。女の子じゃこうはいくまい。

「そんっなに嫌ですか……」

一ノ瀬が息を切らして肩を揺らす。俺も同様だった。ベッドの上で二人、向かい合って、はぁはぁと息を荒くしている。変な図だ。

「い、嫌に決まってるだろ。お前、男にやられるの想像しろよ」

「想像……っていうか、経験ありますけど」

予想外の返答に開いた口が塞がらない。

「なっ、おま、マジかよ」

「マジです。カナダで俺」

「そ、そんなこと聞いてねえ!」

頭がおかしくなりそうだ。俺は上着をひっつかむと、ライオンを操る猛獣使いのように一ノ瀬を片手で制し、位置を変えて部屋を出た。追ってこようとする一ノ瀬に人差し指を突き付けて動きを止める。

「昨夜、それとさっき電話では助かった。その礼はした。けど、これ以上はない!」

「待って!」

言い捨てて玄関へ向かうが、腕を取られた。その強い力に、肩が外れそうになる。

「いって……」

「ごめん先生! ごめん! もうしない。絶対しないから……」

眉を寄せて、俺を見つめる一ノ瀬。後悔と、俺に嫌われるかもしれないという恐怖とがその表情にありありと浮かんでいる。

「お前な……謝るくらいなら、最初からああいうことすんな」

「すみません……俺、我慢できなくて。先生……」

――その目で見るなっていうんだ。

「もう、いい。分かったから」

「お願いです、嫌いにならないでください、先生。俺ほんと謝ります、もう絶対、先生の嫌がること絶対しない、だから」

きゅぅんきゅぅんと目を潤めてすがるレノンを思い出す。引導渡してやろうかと口を開け、やっぱり閉じる。意を決してもう一度開ける。だが、俺の口から出たのは特大のため息だった。

「……嫌いには、ならねえよ」

俺の言葉に、一ノ瀬が心底安堵した顔を見せる。

「ほんとに、何もしないから。先生が嫌がることしそうになったら、俺、自分で自分のことぶん殴る」

「しなくていい。落ち着け。また、来るから」

「ほんとっすか」

電気をつけたのかと思うほど明るくなる顔。まったく。……激しいキスをして。夢中になって我を忘れて。落ち込んで。喜んで。一ノ瀬は一喜一憂だ。俺の言葉や態度に振り回されて、でも、いつだって一途に俺のことだけを考えている。これだけの時間が過ぎても、一ノ瀬は何も変わっていない。経験を積んで成長し、大人になって、だけど根本的な部分は何も変わらず、俺を求めてくる。こんなに一生懸命、こんなにまっすぐ。

――俺はそんなたいした人間じゃないのに。

刷り込みというやつだろうか。ひよこが最初に目にしたものについて歩くように、こいつは小学生の時に目にした俺のプレイを刷り込まれて、反射的についてきてるだけなのかもしれない。妻が俺を求めてくるのとは何かが決定的に違う。なんだろう。何が違うんだろうか。この考えをまとめるには、まだ少しかかる気がした。

「とにかく、今日は帰る。またな」

「ほんと……すんませんでした」

一ノ瀬の頭をくしゃりと撫でて、俺は一ノ瀬のマンションを後にした。

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