今日が休みで助かった。じゃなきゃ完璧に遅刻だ。カーテンを開けると、かなり高く昇っている太陽が、俺に空腹を思い出させた。
「先生? 起きました? 開けて大丈夫ですか」
「や、ちょ、ちょっと待て」
一ノ瀬の声に、慌ててズボンを手に取る。
――そういや合宿中にのぼせて助けてもらった時は素っ裸を見られたんだっけ。何にもされなかった? よな……。状況的にそれどころじゃなかったからか?
ズボンをはいている間、疑問が湧いてくる。考えても答えが出ることじゃないから、疑問はぐるぐると渦を巻いたまま俺の頭から出ては行かない。
「寝坊した……すまん」
「いえ。俺も今は仕事詰まってないし、さっき起きたばっかで」
「そっか、なら良かった」
「なんか飯食います?」
「食う!」
食い気味に答えてしまって赤面する。大したものはないと言ったけれど、一ノ瀬は手早くスクランブルエッグを作り、バタートーストを作り、コーヒーを淹れてくれた。俺はそれらの乗った皿を机に運び、二人で食べる。
「すんません、料理あんまりしないし……」
「いや、十分美味いよ」
ぺろりと平らげて、コーヒーを口にする。
「はーっ、落ち着いた!」
「良かったっす」
嬉しそうに笑う一ノ瀬の背中で、レノンの尻尾が動いている気がする。
ふとスマホを見ると、妻からの着信が何度かあった。
「あー……ちょっと、ごめん」
一ノ瀬に断りを入れ、メールを打つことにする。さすがにここで電話するのは気が引けた。けれど、連絡を後回しにするのも悪い。
『ごめん。昨日は酔っぱらって、終電逃した。知り合いの家に泊まってる。しばらくしたら帰る。ごめん』
悩みつつ文章を作り、送信する。と、すぐに電話がかかってきた。
――マジか。
「悪い」
席を立つと、一ノ瀬は黙って玄関を示し、外に出るよう促した。通話を始めながら、俺は慌てて移動する。
「ごめんって。久々に酔っぱらっちゃってさ……違うって、そんなんじゃないから」
一ノ瀬に気兼ねすることもないのだけど、気まずいのは事実だった。玄関からマンションの廊下に出て、誰もいないことを確認しながら妻に謝り倒す。けれど頭から浮気を疑ってかかっている彼女は俺の言葉を信用しない。
「ここんとこずっと相手してくれなかったし、私のことなんかもうどうでもいいんでしょ!」
ヒステリックになってしまうとしばらく手が付けられない。俺が悪いと分かってはいるけれど、違うって言ってるのに聞く耳も持たない彼女には、どうしても辟易する。俺はスマホから耳を離して嘆息した。
ガチャリ、と重い音がして、一ノ瀬が顔をのぞかせた。
『大丈夫ですか』
声に出さず、様子を伺ってくる。俺も声には出さず、大丈夫だとうなずいた。けれど、大丈夫でないことを無意識のうちに目で訴えていたのかもしれない。一ノ瀬はそのまま家から出てくると、スマホを指さして小声で尋ねた。
「奥さん?」
小さくうなずく。
「聞いてるの? ねえ!」
「聞いてるって。だから、本当に、浮気なんかじゃないって。そんなことしないって言ってるだろ」
答えながら、一ノ瀬に視線を送って状況を説明してみる。すぐに通じたようで、一ノ瀬はちょっと笑った。そして俺からスマホを取り上げる。
「あーもしもし、一ノ瀬と申します、初めまして。元生徒です。バスケ部員でした。昨日、先生と偶然会いまして、飲みすぎちゃって、俺の家に泊めたんです。先生、浮気なんかしてませんよ。安心してください」
一気に言う。電話の向こうで妻がなんと言うか気になり、一ノ瀬が耳に当てているスマホに俺も耳を寄せる。一ノ瀬がぴくりと反応したが、この際それは無視する。
「一ノ瀬、さん?」
「はい」
「男の人……」
「はい」
一ノ瀬が苦笑する。一ノ瀬に限っては、本当のところ、男だとしても確実に安全な相手ではないわけだけど……。でもそれを妻に言う必要はないし、昨夜は現に何もなかったのだ。俺は浮気なんかしていない。これは真実だ。
なんとか妻をなだめて電話を切ると、俺は一ノ瀬に頭を下げた。
「ありがとな。助かったわ」
「いえいえ、なんて事ないですから。先生は本当に浮気してないですしね。俺も何もしてないし」
冗談めかして笑う一ノ瀬の背中を叩いて、俺も笑った。なんだか、すごくほっとする。
「先生、次は本当に飲みましょうよ」
「そうだな。今度は飲みすぎないように気を付けるから」
「そうしてください」
新しく淹れたコーヒーを手に、俺たちはリビングでくつろいでいた。一ノ瀬と雑談をして笑い合う。なんだか久しぶりに肩の力を抜いて過ごせている気がする。
「で、早く帰らなくていいんですか? 奥さん、怒ってたじゃないですか」
「うーん……まだいいよ」
「俺は、嬉しいですけど」
やけに小声で一ノ瀬が呟く。
「何? 聞こえねーな」
「先生……意地悪言わないでくださいよ。分かってるくせに」
拗ねた顔で唇を尖らせる。一ノ瀬は煙草を取り出して俺に箱を見せた。
「いいですか?」
「ああ」
妻は煙草が嫌いだし、俺も吸わないけれど、人が吸うのは気にならない。慣れた手つきで煙草に火をつける一ノ瀬は格好よく見えた。
「なんか……大人になったよな」
「煙草?」
「それもあるかな。酒に誘われるのも、ちょっとイメージ沸かなかったから。……なんかこう、全体的に追いつかれてる感じがする」
「そんなことありませんよ。先生はいつだって俺より七つ上でしょ。いつまで経っても先生の方がずっと大人」
そんなことを言いながら、ふぅーっと煙を吐き出す。一ノ瀬の言葉や態度には、あの頃なかった余裕がある。笑みすら浮かべて俺を見ている。そんな一ノ瀬がなんだか眩しく思えて、俺はため息を吐いた。
「上手くいってない、ってわけじゃないんだけどさ……」
つい、妻のことを愚痴ってしまった。友人の結婚式の二次会から始まって、同じ教職についていたことから意気投合、すぐに付き合い始め、二年で結婚。悩んだけれど、子どもが欲しいと言ってちょっと前に仕事をやめ、今はそれで求められることが重たい。と、ここまではさすがに話せなかった。こんな話を一ノ瀬にするほど俺も子どもじゃない。
「あいつが仕事辞める時、ちょっと揉めてさ。それからなんとなくぎくしゃくして」
「そうだったんですね」
咎めるでもなく、励ますでもなく、ただ聞いてくれる一ノ瀬に安心感を覚える。
「先生が幸せになってくれたらいいって思ってて……結婚したんなら良かったって思ったけど、結婚はゴールじゃないし、ドラマみたいにハッピーエンドで物語が終わるってわけじゃないんですもんね。そりゃ、色々ありますよね」
「いっつも変だと思うんだよな。若い子向けの恋愛ドラマはさ、付き合うか結婚するかでハッピーエンドになるのに、その次がなくって、今度は昼ドラとかでドロドロの話をしたりして。間はないのか、間は、って」
「普通の結婚生活はドラマにならないですよね」
「結婚は素晴らしいエンディングのはずだったのに、いつの間にか最低のものになってて。おかしいよな。その間に何かしらドラマがあるはずなのにすっ飛ばされる」
「確かに」
「平凡な生活の中にもドラマってあると思うけどな。……そういや、こないだは先輩の話が多くて、お前の話を聞いてないな。ドラマ、あったろ?」
「俺ですか? ……そうですね、俺も色々ありましたよ。カナダ行ってすぐはやっぱ言葉が全然分かんなくて。先生が心配してた通り。でもまあ……二年くらいいた間に強くなりましたね」
「なるほど」
「言葉は、みんなも完璧じゃないんですよ。いろんなとこから来てるし、学校じゃそれぞれが片言でしたから、俺だけができないわけじゃないって思ったら気にならなくなって。もう後は勢いですね。一番いいのは、恋愛する事」
平然と、当たり前のように口にしたその言葉に、驚く素振りを見せないのは難しかった。
「恋愛、したんだな」
「しましたよ。たくさんね」
「へ、へえ……」
「あっちには本当にいろんな人がいて。男も、女も」
「……」
もう、言葉も出ない。俺が何も変わらず仕事とバスケに明け暮れている間に、一ノ瀬はどんな経験を積んだというのだろう。
「でも、先生に敵う人はいなかったな」
「そっ、そんなことないだろ」
思わず声がうわずってしまう。一ノ瀬がマグカップを置いて、短くなった煙草をもみ消す。俺を見つめる一ノ瀬の目は、深く俺を射貫くようだった。ずっと変わらない、まっすぐな瞳。
――そんな目で見ないでくれ。