また会おうと約束したわけじゃなかった。もう二度と会うことがなくても不思議じゃない。同窓会があるとしても呼ばれるのは担任だし、バスケ部で集まるということはない。こちらから連絡する気はなかった。だから、もう、会わないだろう。そう思いながらも、あの白い小さなカードはいつまでも俺の胸のさざ波に揺れていた。
「まだ寝ないの?」
「ああ……うん。これ、明日までのだからやっちゃわないと」
「そう」
避けてるわけじゃない。……いや、違う。避けているのは事実だ。だけど、避けたいと思っているわけじゃない。
あれから何度か話そうとしたが、子どもはまだと言うと彼女は怒る。あるいは泣く。気持ちは分かる。けど、俺の気持ちも分かってほしい。心の準備が出来ていないのに、そんな簡単に作れない。だから話を、と思うけれど、いつも話にならない。そして彼女は、その都度「ゴムはつけないで」と言う。正直言って、怖い。俺を何だと思っているんだろう。子どもを産むために必要な道具でしかないんじゃないか。いや、そんなはずはない。彼女は俺を愛している。だから俺との子が欲しい。それは間違いない。だけど。ああ、だけど。
「ごめん、今夜は遅くなる」
「え? 聞いてない」
「ごめん。ちょっと、急に……」
「田町さん?」
「うん。明日は休みだし久しぶりにって」
嘘はついていない。やましいことは何もない。誘われたわけじゃなく、今からこっちが誘うだけ。
『今夜、暇ですか? 良かったら飲みませんか。相談に乗ってほしいことがあって』
『すまん。今日は仕事で接待なんだ。急ぎか?』
『いいえ、そういうわけじゃありません。大丈夫です。また連絡します』
ふぅっと嘆息して空を見上げる。ついさっきまで校舎の向こうに青空が広がっていたのに、もう夕焼けが迫ってきている。そうだった、秋は暮れるのが早いんだ。何故今そんなことを思ったんだろうか。
――どうしようかな。
他の友達にも声をかけてみたが、あいにくみんな先約があるようだった。仕方ない。俺は一人飲みを決行することにした。
世の中には二通りの人間がいる。入ったことのない店を開拓するのが好きな人間と、そうじゃない人間。俺は前者。これだと思った店が外れだったことは何度もあるが、たまに当たると嬉しいものだ。いつか一ノ瀬と行ったピザの店は大当たりだったことを思い出す。でも今日はさすがにピザの気分じゃない。俺はちょっと有名なホテルのラウンジに足を向けた。
――こんなとこで一人っていうのもたまにはおつだよな。
ゆっくりカクテルを舐める。一人で頭の中を整理するのもいいものだ。家で俺の帰りを待っている妻のことを考えると、胸がきりりと痛む。申し訳ないと思うけれど、また求められると思うと息が詰まった。
結局、何杯飲んだだろうか。俺は思うように動かない足を何とか操って、電車に乗った。どっち方面の? 分からない。駅だ。降りなきゃ。どこの駅だろう。分からない。でも降りなきゃ。乗り換え……もうない。ここはどこだ。外に出てみると、ごく普通の商店街だった。もちろん、どこもシャッターが下りている。街灯の下を歩く人影もない。冷たい夜風が気持ちいい。俺はふらふらと街を歩いた。
小さな公園があった。水を飲んで、ベンチに座る。少しは落ち着いた。スマホを取り出す。寂しいと思った。一人でいるのは寒い。ここで寝たら風邪を引く、と頭のどこかで誰かが言った。
「先生、どうしたんですか」
――なんでスマホから一ノ瀬の声が聞こえるんだろう。
「ごめんな、こんな時間に……はは。酔っ払いでーす」
「酔ってるんですね」
「うん、酔ってる。終電はないしさ、どっか知らん公園だしさ、一人でさ、寒いんだよ」
――俺は何を言ってるんだろう。それにしてもこの電話の相手は本当に一ノ瀬なのか?
「場所分からないんですか? マップアプリ開いて、場所、送ってください。迎えに行きます」
「いいよ、悪いじゃん……」
そう言うと、すぐに電話を切った。何をしてるんだろう、俺は。スマホのマップアプリを開く。何をしてるんだろう、俺は。
どれくらいの時間が経ったのか、気づいたら寝ていたらしく、一ノ瀬に起こされた俺は体を震わせた。
「寒……っ」
「昼間はともかく、夜はかなり冷え込みますからね。ほらメット。かぶって。大丈夫ですか?」
「ああ……うん」
酔いはもうほとんど冷めていた。けれど俺はまだ酔っている振りをしていた。そうでもしないと恥ずかしくていられない。酔っぱらって夜中に一人で迷子になって、生徒に――正確には元生徒、だけど――助けに来てもらって。
一ノ瀬のバイクに座って一ノ瀬の背中に掴まると、いつかの時のことを思い出した。
「海、行ったよな」
「行きましたね」
短い会話を交わして、俺たちは黙った。そして一ノ瀬はバイクを走らせ、今度は海ではなく、自分の家へと俺を運んで行った。
ちょっとおしゃれなデザイナーズマンションの一室は、散らかっていた。
「すんません、こんなで。先生が来るって分かってれば片付けといたんですけど」
一ノ瀬が笑って冗談めかす。俺は黙って首を振った。
「こっちこそ、すまん。急に押しかけて」
「俺が連れてきたんですって。……なんか、飲みます? 酒じゃない方がいいですよね。水くらいしかないけど」
「うん。水がいい」
うなずいて、一ノ瀬はコップに水を汲んでくれた。ミネラルウォーターでもない、単なる水道水。けれど、今の俺には最も必要なものだった。
「……ぷはあ、うめえ」
「なんか、こんなこともありましたよね」
「あったな。あれは夏だったけど。二度目の『命の恩人』だ」
「今回はそれほど大袈裟じゃ」
「分かんねえよ、あのままベンチで寝てたら……『先生、死んじゃってたかもなあ〜』」
「ぷっ! それ、俺の真似ですか」
軽く握ったこぶしを口に当てて、一ノ瀬が笑う。懐かしさがこみ上げた。
「……元気だったか」
「……はい。先生は?」
「俺も元気だよ。今日はちょっと……飲みすぎたけど」
しばしの沈黙。俺は、飲みすぎた理由を言おうかどうしようか迷って。一ノ瀬はたぶん、それを聞こうかどうしようか迷って。結局、二人ともその話題には触れなかった。
「俺のベッド使ってください」
「お前は?」
「俺は……まあ、ここらで寝ます。このバスタオルでかいし」
ソファに投げ出されたバスタオルを広げて、一ノ瀬がおどけて見せる。
「お前が風邪引いたら困る。俺がここで寝るよ」
「いや、駄目です」
きっぱりと言われて、いやでもと問答を続けようとしたが、寝室に押し込められた。押し返そうとしたが無理そうだ。一ノ瀬は両腕を戸口の上に突っ張って、立ちはだかっている。
「寝室も綺麗とは言えないっすけど、まあ寝るだけなら大丈夫っしょ。……おやすみなさい、先生」
さっきからずっと、一ノ瀬は俺と目を合わせない。それがどうしてか、考えなくてもすぐに分かる。やはり一ノ瀬はあの頃と変わっていない。もしかして、寝室の鍵はかけておいた方がいいのか。
「……おやすみ。ありがとな」
俺の声に黙ってうなずき、一ノ瀬は寝室のドアを閉めた。ジーンズを脱ぐのは一瞬ためらったけど、ゆっくり眠るのにジーンズはやはり邪魔だ。一ノ瀬の良心を信じてジーンズを脱ぎ、シャツも脱いで布団に潜り込んだ。一ノ瀬のにおいがする。決してレノンのにおいではないそれを吸い込みながら、俺はすぐに眠りに落ちた。