一ノ瀬くんのリアル〜宮田のリアル 1〜

午後の陽ざしが差し込む喫茶店は、意外と居心地が良かった。かすかに聞こえる曲は知らないけれど、どこかほっとする。合図をすると、店員が注文を取りに来た。

「ブレンド一つ」

続けて注文するかと思い、正面に視線を投げるが、メニューをのぞき込んでいる彼女は微動だにしない。

「……奈々は?」

俺の問いかけに、驚いたような顔を上げた彼女がミルクティーと小さなソフトクリームを注文し、店員は了承して消えた。

「久しぶりに呼ばれた気がする」

「そうだっけ」

『奈々』は嬉しそうにほほ笑んだ。なので、俺もほほ笑み返す。喫茶店の机に、手を差し伸べる彼女。ここで? と思ったが、近くに客はいない。まあいいか。その手を握り返す。

「デートみたいだね」

「まあ、食料の買い出し帰りだけどな」

「言わないでよ、ムードが壊れる」

俺はにこりと笑って黙った。俺の手を握るその手を握り返す。柔らかな、小さな手。細い指。左手の薬指には俺とお揃いの指輪が銀色にきらめいている。たまに食器用洗剤で洗っているのを見る。一年以上経っても輝きが変わらないでしょ、と言っていたっけ。俺は、洗ったことがない。

買いだめをしたいから付き合ってと言われ、来てみたら特売のものもあって、かなりの量になった。疲れたから休憩したい。そう言われて入った喫茶店。思ったよりは美味しいコーヒーで良かった。彼女もソフトクリームを美味しそうに平らげ、ミルクティーを飲んで満足したようだ。席を立って、荷物を抱え、家路につく。デートみたい? そうは思えないけれど、妻が幸せなら俺も幸せだ。

食材の下ごしらえをし、夕食を作り、二人で食べる。テレビを見て、寝る。普段と変わらない夜。でも今夜は妻が布団の中に潜り込んできた。

――ご期待にはお応えしますよ。

結婚式までに3kg痩せると宣言して、実行した妻。今はまた戻ったかな。体重は聞いちゃいけないそうだから不問だけど、恐らくそうだろうという感じがする。でも俺はこの柔らかな体も好きだ。

「ねえ……名前、呼んで……」

荒い息で彼女が囁く。珍しい。普段は何も言わないし、別に文句もなかったのに。

「……奈々」

呼んだ途端、彼女の体がはねた。

「航……航……」

「奈々」

「あんっ……わ、たるぅ!」

名前を呼ぶ効果は思ったより高いらしい。彼女はとても満足したようで、終わってからもなかなか離れなかった。喜んでもらえて何より。けれど、そのあとで始まった話には動揺した。

「そろそろさ、家族増やしたくない?」

「えっ! あー……」

「嫌?」

「そんなことないよ、もちろん。だけどまだちょっと早いかなって」

「そうかな。もう結婚して一年以上経つし、私ももう三十一だし」

女性が年齢を気にするのは当然のことだ。三十前に結婚したいと言われたことを思い出す。だけど……俺はまだ全然覚悟ができていない。

「ごめん、もうちょっと考えさせて」

「……うん」

同意はしたけど、明らかに不満げな顔。……参った。

翌朝、妻に「今夜は遅い」と告げた。ちょくちょくある先輩からの誘いだし、既に伝えてあるから驚かれはしない。

「田町さんと飲みだっけ。ちょっと久しぶりだよね」

「そうかもな」

じゃあ行ってきます、とゴミ袋を手にする。マンションの下まで持っていくのは俺の役割。独身時代から住んでいるから、その時と変化もなくやっているだけなのだけど、「ごみ捨てをする夫」というのはなんだか気恥ずかしいような、弱い立場の者のような気もして、本当は少し嫌だ。

「いってらっしゃーい」

結婚してすぐは玄関まで見送りに出た妻も、今は皿洗いをしながら台所から声をかけてくるだけだ。これは、別に不満ではないけど。

先輩との飲みが楽しみだ。昨夜のこともあって、今夜はちょっと家に帰りづらかったし、先輩に相談に乗ってもらえるかもしれない。

「お久しぶりです」

「おっ」

いつもは二ヶ月に一度くらい会う先輩と、今回は三ヶ月ほど会ってなかった。出張に行っていたらしい。

「どうでした、カナダ」

「ああ大変だったよ。忙しくてさ。とはいえちゃんと観光もしたけどな」

待ち合わせから先輩はよくしゃべる。店に移動しながら、交差点で信号を待ちながら、先輩は出張の話を続けた。それを聞きながら、俺は、信号待ちをしている前の男の肩の線が誰かに似ている、と思っていた。背が高く、俺の目の前にその肩はある。おしゃれなジャケットに、ちょっと高そうなチノパン。カバンも品が良い。左手首に、革のブレス……。先輩のおしゃべりが耳に入ってこない。何故か、その男が気になって仕方ない。信号が青になって、人混みがゆるりと動き出す。先輩と俺も、その男の後ろについて歩き出す。他にもたくさん人は歩いているのに、俺はどうにもそいつから目が離せなかった。

「おい宮田、あっちだぞ店」

先輩に呼び止められて、はっと我に返った。それと同時に、男が振り返る。「宮田?」という顔で。人混みの中、ざわめきが遠のき、俺の意識がそいつの顔にフォーカスする。

「一ノ瀬……!」

振り返った一ノ瀬は心底驚いたような顔をして、俺を見つめている。先輩が疑問の色を顔に浮かべて戻ってきた。

「何、知り合い?」

「あ、はい。教え子なんです……いや、だったんです、もうずいぶん前……」

「会うのは九年ぶり、ですかね」

低く、落ち着いた声色。急にあの頃のことを思い出す。

「一ノ瀬です。初めまして」

「どうもどうも、田町です。すごい偶然もあったもんだね。……そうだ、良かったらどう、一緒に。誰かと約束あるの?」

「いえ。買い物に来て、帰ろうか飯食おうかって思ってたとこなんで」

「ちょうどいいじゃん! 宮田も、久しぶりなんだろ」

「え? ええ」

「お邪魔じゃないですか」

「全然! カナダ出張から帰って久々に後輩と飲もうと思って誘ってたんだ」

「カナダ?」

「そう」

「俺も前に住んでたんですよ。これも面白い偶然ですね。じゃあ……ご一緒させてもらえますか」

大人びたやり取りに違和感を覚える。こいつは本当にあの一ノ瀬なんだろうか。先生、先生と追いかけてきた一ノ瀬。切羽詰まった顔をしていた一ノ瀬。俺を好きだと言った……そこまで考えて俺は頭を振った。それはもう、遠い昔の話だ。もう、大人になったんだ。九年も経って……。

先輩とは大学時代にバスケを通して知り合った。その後商社に就職して、忙しく働いているが、年に数回は飲みに誘ってくれる。俺は相変わらず教師をしていて、バスケ部の指導も続けている。

「おじいちゃん先生、引退したんですか」

「ああ、一昨年な。だから今は俺が顧問もやってる」

「そうなんですね。じゃあ先生、大変だ」

「まあな。でも充実してるよ。今年はなかなかいいメンバーが揃ってるぞ」

俺が話すのを、先輩が嬉しそうに見ている。

「なんか新鮮だなあ。宮田は俺にとって後輩だから、下の奴にそういう感じで話してるのはあんまり見なくて」

「すみません。お恥ずかしい」

「いやいや、いいよ。教師だもんな。先生かあ。俺も憧れたなあ。若い女の先生がいてさ。好きだったな」

――そ、その話題は……。

動揺していることを悟られたくない。一ノ瀬に気づかれないよう、目を伏せた。すると一ノ瀬が明るい声で話し始めた。

「分かります、俺もありましたもん。懐かしいなあ。ねえ、先生」

――堂々と俺に話を振るな。

同意を求められても困る。俺はどっちつかずの曖昧なリアクションをするしかなかった。でもよく考えれば、一ノ瀬が憧れた相手が俺だと分かるわけはない。先輩も、まったくそんなこととは思わずにいるだろう。

「美しい思い出だよ。よく考えると、そんな年が離れてたわけでもないんだよな。意外とイケたのかもなあ、モーションかけてみれば良かった」

「教師と生徒で、うまくいきますかね?」

「無理か、やっぱ!」

「生徒に手を出すわけにいかないですよね、先生」

「あ、ま、そりゃ……」

俺はいちいち目を白黒させてしまう。そんな平然とした顔で、何を言ってるんだ。一ノ瀬はごく普通に会話を続けている。俺が一人であたふたして、馬鹿みたいだ。

その晩、俺はどうにも居心地の悪い飲みの席に座り続けることになった。

「あ、じゃあこれ俺の名刺ね。よろしく」

「よろしくお願いします。俺のです」

会計を済ませ、店を出てから、田町先輩と一ノ瀬が名刺交換をした。今さらという気もするが、酒に酔った二人は楽しそうに赤い顔で笑っている。

「悪い、俺ちょっとトイレ」

田町先輩が店に戻っていく。一ノ瀬が俺に向き直り、名刺を差し出した。名前と連絡先だけが書かれたシンプルなカード。

「先生にも。これ」

「あ、ありがとう」

俺たちは二人で一枚の小さなカードを指先で持ったまま向かい合った。受け取ろうとするが、一ノ瀬が名刺を離さない。思わず顔を上げて一ノ瀬を見る。その目が、俺を貫いた。

「また会えると思わなかった」

「……」

「結婚、したんですね」

俺の左手には指輪が光ってる。気づいて当然だ。隠す意味もない、隠す必要もない、けれど俺は左手を引っ込めて握りしめた。一ノ瀬が名刺から手を離し、名刺は俺の右手に収まった。

「幸せですか」

「ああ、まあ」

先輩に相談しようと思っていた話は、とてもじゃないが言い出せなかった。今日は妻に関する話は一言も出ていない。

「良かった」

一ノ瀬はにっこりと笑った。そしてもう一度繰り返した。

「……良かった」

心底良かったと思っている顔じゃない。何を考えているのかは分からないけれど、複雑な気持ちが入り乱れていることは容易に想像できた。それでも、良かったと一ノ瀬が言うなら、俺はそれを受け止めるしかない。唇に笑みを浮かべてみる。一ノ瀬の唇が薄く開いた。何か言いたげに。

「お待たせ! いや、悪い悪い」

田町先輩が戻ってきて、話は終わった。俺たちは駅で別れ、一ノ瀬は頭を下げて帰って行った。名刺に載っていた住所に、今は一人暮らしだと言っていた。設計の仕事をしている、とも。高校生だった一ノ瀬とは別人のようだ。ただ、まっすぐ射貫くような目は、あの頃と同じだった。

――そんな目で見ないでくれ。

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