一ノ瀬くんのリアル 22

「さようなら……先生」

「ああ。元気でな」

「お世話になりました」

――刑務所じゃないっつーの。なにこれ。

なんだか他人事のようだ。余りの悲しさに脳みそが理解を拒否しているのかもしれない。本当は辛くて胸が切り裂かれそうだ。それを考えたら辛くて、居ても立っても居られないから、自己防衛本能でバリアを張っているのかもしれない。

「……じゃあ」

声を絞り出す。クラスや部活での送別会を済ませ、木内や恭子とも涙の別れをやった。今日で学校を離れる。宮田と会うのもこれで最後。もう二度と会えないと決まったわけじゃないけれど、気分的には今生の別れだ。何しろ、行き先はカルガリー。

『カルガリー? どこだよ!』

聞いたことのない都市の名前を告げた父親に詰め寄ると、カナダのアルバータ州最大の都市だと言った。聞いたことがあるような、ないような。都市の様子も、そこに住む人々の様子も、うまく想像できない。カナダだから恐らく寒いんだろう。分かるのはその程度だった。

転勤。年単位になるという。日本で一人暮らしするのか、ついていくのか。一ノ瀬はあまり迷わなかった。

『俺も行く』

父親は少々意外そうな顔を見せたが、言葉少なに同意し、親子はそれだけでカナダ行きの話を終えた。むしろ大きな反応を見せたのは、宮田の方だった。

「えっ、なに、カナダ? 本当に行くのか」

「はあ」

「なんだよその反応!」

「心配してくれるんですか、先生」

「そ、そりゃまあ……だってお前、英語も出来ないだろ?」

「行けば何とかなるっていうか。暮らしてれば、そのうち使えるようになるかなって」

「そんなんで大丈夫かよ」

余りに急で、どうしたらいいのか分からないのだろう。宮田は頭をかきながら、腰に手を当ててそこらを歩き回る。放課後の職員室。窓ガラスから差し込む夕陽はなんだか丸く優しい。けれど、秋の日は釣瓶落とし。見ている間にも空はどんどんと薄暗くなっていく。群青色に染められていく空は、一ノ瀬の気持ちを反映しているようだった。

「ちょうどいいかな、って思って」

「え?」

ぼそりと呟くと、その声に反応して宮田が振り返った。

「ずっと、先生のことで頭いっぱいで。けど、どうしようもないし」

実際に言葉にすると悲しくなってくる。けれど、自分で考えて決めたことだ。男同士だなんて、どう考えても未来がない。先生のことは諦められないけれど、先生が自分を好きになってくれるとも思えない。そんな人のことをずっと追いかけていても仕方がない。いっそ離れて、新しい環境の中で必死に生きてみるのもいいかもしれない。自分の人生を見つめることができるかもしれない。だから、海外に行くというのはちょうどいいチャンスなのだと、自分に言い聞かせた。

「いつ帰ってくるとか分からないし……もしかしたら向こうで仕事見つけて働くかも。そしたらもうずっと日本には戻らないかも」

「マジかよ」

「先生も、その方が楽でしょ」

そう言った途端、一ノ瀬は後悔した。それは、ずるいセリフだった。相手の罪悪感を引き出して、自分が傷つかないよう優位に立とうとする、無意識の言葉。案の定、宮田は困った顔をして、口をつぐんでしまった。

「……すんません。先生を困らせてばっかりっすよね。だから、良かったと思ってるんです。俺がいなくなれば……」

言うほど深みにはまっていく気がする。後悔を重ねながら、それでも一ノ瀬は言い募った。もうこうして二人で話すこともなくなるだろう。そう思うと、自分の気持ちをすべて吐き出してしまいたかった。

「俺、先生が好きです。今も好きだし、これからもずっと好きです。それは間違いないです。でも、先生に迷惑はかけたくない。俺なんかに関わらないで、幸せになってほしいんです。そばにいたら……きっと我慢できない。先生のこと、追いかけちゃうと思うんです。そんで先生は俺が可哀想になったり、その、レノンみたいに思っちゃったりして。俺はきっとそれに付け込んで……なんか、そういうの嫌だし」

焦って早口になる一ノ瀬を見つめながら、宮田は黙っていた。

「俺は卑怯です。先生に振り向いてもらうためならなんでもする。こないだみたく、命の恩人だとか言ったりして……。でも、本当はそれじゃ意味ないって分かってるんです」

息苦しくなる。胸が痛い。落ち着けお前は暴走しているぞ、と、頭のどこかで冷静な誰かが言う。うるせえ、とそいつを黙らせ、一ノ瀬は強く目をつぶった。

「そんな手を使わないと何もできない。そんなんじゃ、先生が好きになんかなってくれるはずない。分かってます! だから!」

呼吸するのを忘れていたことに気づいて、はあっ、と大きく息を吐く。宮田が、目を細めた。

「だから……もっと成長したいんです。大人に、なりたい」

「そうか」

小さく呟く宮田の声は優しかった。

「最後だから思い出にキスしてくださいとか言わない大人になりてえ……」

弱々しげに吐き出す独り言。目を合わせられない。両手を膝に置き、うつむいたままでいると、近づいてくる宮田の足が視界に入った。

「しょうがねえなあ」

宮田は苦笑しながら、肩を落とす一ノ瀬の髪をくしゃっと掴んだ。

――イケる?!

勢いよく顔を上げた一ノ瀬の目に、意地悪い笑顔が映る。

「しねぇぞ」

「せんせぇ」

「甘えた声出したって無駄。……教師が生徒に、キスするわけないだろ」

きつい言葉のはずなのに、その響きに含まれる優しさが一ノ瀬の涙腺を緩ませた。何かが鼻につぅんときて、一ノ瀬は目をしばたたかせた。

「向こう行っても、元気でやれよ。出来れば……バスケも続けろよ」

「あっちじゃ俺なんかチビだし」

「ははっ、確かにそうかもな!」

明るく笑う宮田は、身長と関係なく大きく見えた。一ノ瀬が五年生だったあの日、体育館で綺麗なプレーを見せてくれた時と変わらず――。

転勤の話を告げた時は夕暮れだった職員室を思い出す。今は明るい日差しが差し込んでいる。二人きりでもない。複数の教師が出入りしている、いつもの職員室だ。一ノ瀬はもう一度声を絞り出した。

「……じゃあ、これで」

宮田の顔を目に焼き付けるようにまっすぐ見つめる。

「先生、ありがとうございました」

「……元気でな。親父さんによろしく」

「はい」

気持ちを込めて言った言葉。宮田に届いただろうか。それは分からない。本当は大好きだと大声で言いたい。抱きしめたい衝動に駆られる。けれどそれは無理だ。場所的にも、相手の気持ち的にも。別れがたい。ここから去りたくない。一ノ瀬は感情の高ぶりを隠して、軽く頭を下げた。宮田が小さく笑う。どんな顔で応えたらいいか分からず、一ノ瀬は複雑に顔を歪めた。

そうして二人の関係は唐突に、あっさりと、終わったのだった。

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