一ノ瀬くんのリアル 21

――ここでほだされたらいけないんだよな。

宮田は、目を閉じて軽く深呼吸をした。気持ちを落ち着けようという試みである。

――レノンと同じで、こうやってしょげて見せてるのもポーズだから。……いや、本人は無自覚かもしれないけど。甘い顔するとつけあがる。それは間違いない。

もう一度、視線を隣に投げる。一ノ瀬は下唇を軽く噛んだまま、うなだれている。さっきまであんなに楽しそうだったくせに、今はすっかり意気消沈だ。

――ちょっと可哀想かな。……いや、いかんいかん。

けれど気になって何度も目をやったり、戻したりしていると、ついに一ノ瀬が気づいてしまった。

「なんすか」

「や、別に」

「……」

つれなくすれば、またしょぼん、である。いちいち自分のために一喜一憂する一ノ瀬が飼い犬とかぶって可愛く思えてしまう。

「……ちょっとだけだぞ」

「マジすか!」

その声の大きさを諌めて、宮田はちょっとだけだと繰り返した。

「やった……!」

両手のこぶしを握りしめて嬉しそうにしている一ノ瀬に苦笑する。

――あーあ、弱いなあ俺。

そういえばレノンにも、いつも散歩をねだられて押し切られていたっけと思い出す。一ノ瀬は犬じゃないけれど、その押しの強さといい、感情豊かに喜んだりうなだれたりするところといい、やはり似ている。

――やれやれ。いやでも、それ以上は押し切られないぞ。ほだされたりしない! 何しろキスとかやばかったし。

もう一年以上前になったあのキスのことを思い出してしまった。一ノ瀬の思いの丈が込められたキスは、乱暴で、でも深くて、頭がくらくらした。

――なしなし! 今のなし!

ふと我に返り、何を考えているんだと慌てる。宮田は思わず両手で顔を覆った。一ノ瀬が不思議そうにのぞき込む。

「先生?」

「なんでもない」

顔が赤いかもしれないと思うと、手を顔から離せない。なんでもないと言い続けて、駅に着くまで宮田は顔を上げられなかった。

もしかしたら可能性があるかもしれないから、待ち合わせの駅までバイクで行くのがいい。そんな恭子のアドバイスに一ノ瀬は今、心から感謝していた。

「用意周到だなあ」

「木内が使ったやつ、乗せっぱなしになってただけっすよ」

――嘘だけど。

前もってきちんと準備して置いたメットをかぶる宮田に言い訳する。家とも学校とも、そしてついさっき向かった都心の方角でもない、海が見える場所へ。一ノ瀬は夢心地でバイクを走らせた。

有名なデートスポットではあるが、少し離れれば人影も少ない埠頭。

「意外と海って近いのなー」

海風に髪をなぶらせた宮田は、意外そうな表情を見せている。

「海っていうとさ、大きな荷物かついで、電車に揺られて一時間とかそういうイメージだった」

「夏休みの家族の一大行事、的な?」

一ノ瀬が笑うと、宮田はそうそうと頷いた。

「俺、兄貴がいて。両親と四人で千葉の方の海岸に行ったんだけど、帰り、疲れて寝ちゃってさ。兄貴が浮き輪とか水中眼鏡とかいろいろ持たされて、親父が俺を背負って、母親も弁当とか山盛り荷物で帰って……大変だったって今でも言われる」

照れくさそうに話す宮田の、子ども時代を想像することは難しい。けれど、そんな他愛のない話をしてくれること自体が嬉しかった。

「俺は、バイク買って初めて一人で走った時、最後にここ来たんですよ。あんまり人もいなくて、でも海が見えて。一人でこんな遠くまで来たって思ったら、なんか興奮しましたね。まあ、高速とかばっかでそんな景色がいいわけじゃないっすけど」

「まあな。でもいい感じだよ。気持ちいい」

宮田が視線を海上の船に滑らせる。眩しい夏の太陽はまだ沈もうとしない。波の上が白くキラキラと輝いて、宮田は目を細めた。特にイケメンだとか、整った顔立ちだとかいうわけでもないけれど、その横顔を眺めていると胸がいっぱいになる。

そこにいた時間はそれほど長くはないはずだった。特に何かしたわけでもなかった。黙って宮田の顔を眺めただけ。けれどその時間が、一ノ瀬にとって何物にも代えがたい、高校時代最高の思い出になった。

まさか、それが最後になるとは思わなかったけれど。

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