合宿が終わると、夏休みも終盤である。部活はしばらく休みが続くが、だからといって暇なわけではない。一ノ瀬は全然やっていなかった宿題と戦っていた。と、スマホの振動が着信を告げる。黒い画面に「宮田先生」の文字。心臓が跳ねる。
「……もしもし」
「ああ、俺だけど」
スマホごしのやり取りが、なんだか恋人同士のように聞こえる。そんなの勝手な思い込みに過ぎないと分かっているけれど、それでも嬉しくなってしまう。
「宿題、ちゃんとやってるか?」
からかうような、笑いを含んだ声。春からずっと続いた、目線が合ってもそらすような冷たい態度は鳴りを潜めている。宮田の声に柔らかさを感じて、一ノ瀬は顔をほころばせた。
「ちょっと急だけど、明後日、暇か? こないだのお礼しようと思ってるんだけど」
「はいっ! 暇です!」
背筋が伸びてしまう。ついに来た。デートだ。宮田にそのつもりがないのは重々承知だ。けれど、こちらは嬉しくてたまらない。
「ど、どこへ行きます?」
恐る恐る聞く。頭の中に、数日前に恭子としゃべっていた時のことがよぎった。
「デートの定番っていったら映画かな。アクションものとか。飯はうまいとこがいいな。でも男二人だからおしゃれなカフェとかはダメだろうなあ。変に目立つよなあ。あ、バイクあるから海もいいかもしれない。先生、二人乗りしてくれるかなあ」
「いっちー……はしゃいでるね。ちょっと落ち着けば」
「どうしよう、あー無理だろ落ち着くとか!」
「嬉しいのは分かるけどさあ。露骨すぎだよ。そんな喜んでたら、私も傷つくよ?」
恭子は一ノ瀬のことが好きだった。告白して付き合ったけれど、一ノ瀬には他に好きな人がいるはずと、辛い別れを選んだのだ。先生とのデートの約束を報告しながら、舞い上がった一ノ瀬はそのことをすっかり忘れていたのである。
「あ、ああ、ごめん、俺」
慌てて謝ると、恭子は両手を口に当てて吹き出した。
「う・そ!」
「はあ?」
「もうそんな引きずってないし! しょうがないなあ、いっちーは。そんな嬉しそうだと、こっちも嬉しくなっちゃうじゃん」
苦笑しながらも、恭子は一緒に喜んでくれているようだった。デートについて相談するならモテたことのない木内より、やはり女子だろうと打ち明けたのだったが、元カノに対して無遠慮だったかと反省していた一ノ瀬である。恭子の本心は分からないが、少なくともその笑顔は自然なものに見える。
「学校の子に会わないってのが最重要なわけでしょー? そしたらやっぱバイクで遠くに行くとか、いいよねえ」
本腰を入れて、机に乗り出す恭子。二人の間にはタブレットが置かれている。
「どこがいいかなー……」
観光、海、など、いくつかの単語を打ち込み、検索する合間にも、恭子が聞いてくる。
「先生、趣味とかは?」
「バスケ」
「だけ?」
「毎日そればっかり考えてるって言ってたし」
「難しいね、それは」
タブレットには華やかで楽しそうなプランがたくさん出てくる。けれど理想のデートプランなんて、男相手には役立たずだった。
「いかにもなデートっていうのはちょっとね〜」
「先生、女の子じゃないからな。……どうしよう」
一ノ瀬はまるでクゥンと犬が鳴くような顔で恭子を見つめた。恭子はその頭をよしよしと撫でる。先生と比べて、やっぱ小さな手だな。そんなことを頭の片隅で思った。
「特になんも考えてないんだけど、とりあえず遠出するってことで」
大きなターミナル駅に十時と一方的に告げる宮田は、あまりにも気楽だった。
――こっちはあんな色々考えたのに、それで終わりかい。
なんだか悔しくもあったが、向こうはデートのつもりもなく、単に生徒にご飯をおごるというだけのたいしたことないイベントなのだから、それも当然だ。ほんの小さく嘆息する。
「なんだ、不満か」
「えっ、いやちが……っ、違います! 楽しみです、先生と出かけられるの、嬉しいっす!」
「そか」
きっと、にこりと笑っただろう宮田の声に、一ノ瀬の心臓が掴まれたようになる。
――こういう時、なんだよな。好きだって思うの。
なんでもない瞬間の、なんでもない表情や仕草、声にどきっとする。
「じゃ、明後日な」
「はい」
さらりとした会話で電話は切れた。一ノ瀬の緊張やときめきなどまったく伝わっていないのだろうか。一ノ瀬は呆けたように息をつくと、天井を見上げた。
――やべえ、何、着てこう。
当日の朝。
ほとんど徹夜の一ノ瀬は、九時過ぎには待ち合わせ場所の改札前にいた。なかなか寝付けなかったのに、目が覚めたのは朝の四時半。二度寝も出来ず、家にいても時間を持て余すのでさっさと出てきた。父親は出張で家にいない。挙動不審な姿を見せずに済んだのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「おはよう」
現れた宮田は、カジュアルな格好だった。いつもと違う雰囲気に、高揚感を覚える。部活の時はジャージ姿、教壇に立つときは大体背広。それが今日は爽やかなブルーのシャツにスリムめなデニムだ。大学生で全然いける。実際、半年ちょっと前までは大学生だったのだと改めて思い出す。白のスニーカーも、一ノ瀬の目にはより眩しく映っていた。
一方の一ノ瀬はと言えば、考えすぎて分からなくなり、結局Tシャツに白シャツ、アンクル丈のパンツ、スリッポンになった。せめてもと黒のレザーネックレス、手首にはミサンガ数本を組み合わせてつけてきたが、これが似合っているのかどうか、不安ではある。そんな一ノ瀬の思いを吹き飛ばすように、宮田が目を丸くしている。
「お前ってさ……ホントお洒落な」
「そ、そうすか? 普通ですよ、普通」
「違うよ。いや、普通のアイテムなのかもしれないけど、着こなしが違うっていうか。身長もあるしな。華やかっていうか……いいよなあ、見た目がいい奴は」
「そんな……別に、俺なんか。せ、先生だって今日はいつもと違うし……その、いいっすよ、なんか」
「何言ってんだ、普段着普段着」
宮田はそう言って笑い飛ばし、行こうと一ノ瀬を促した。こんなやり取りにも心が弾む。二人で会って、これから出かけるんだという事実が目の前にある。一ノ瀬はこみ上げる嬉しさを隠しきれず、宮田の背中を追いかけた。
電車を乗り継ぎ、見知らぬ街に降りる。都心のちょっとおしゃれな感じの街だ。おしゃれな装いの若者が多く歩いている。一ノ瀬は初めての町に少々どきどきした。だが宮田はくつろいだ様子でぶらぶらと歩いていく。軽く尊敬の念を抱いてしまう。
――やっぱ、大人だなあ。
「お、ここどう?」
そう言って振り返った宮田が示した店は、それほど大きくないイタリアンの店だった。石焼き窯があるのが売りのようで、焼きたての本格ピザと大きく書いてある。高校生の一ノ瀬には、一人だったらちょっと入りにくいと思わせるような店である。けれど今日は宮田がいる。こうなるとデートというよりは保護者のような気もしてきたが、考えないことにした。
席について、ランチメニューを注文する。その手慣れた様子にも、大人の余裕を感じる。
「……!」
熱々のピザを口にほおばり、二人は無言で顔を見合わせた。必死に飲み下し、一ノ瀬はむせこんだ様子で言う。
「これなんすか、マジうまいっすね!」
「すごいな、大当たりだな」
二人はあっという間に平らげ、満足そうに腹をなでた。食後のエスプレッソまで本格的で美味しい。一ノ瀬は宮田とデートということを忘れるほど夢中で食べていたことに気づいた。
「先生、すごい鼻が利くんですね」
「いや偶然だけどな。良かったよ、うまくて。ちょっと遠いけど、また来たいな」
「ですね」
――その時も、出来れば二人で……。
言葉の後半を飲み込むために、一ノ瀬は口を拭く振りをして誤魔化した。
「思ったより高くないしな。あ、もちろん今日は俺のおごりだぞ。それが目的だからな」
軽く片目をつぶってにやりと笑う宮田。いちいち、どうしようもなくときめいてしまう。一ノ瀬にとってはおごられるのが目的ではなく、先生と疑似デートを楽しむのが何よりの楽しみだったのだが、それは口に出さないでおく。
「今日は、御馳走様でした」
ターミナル駅まで戻る電車の中、一ノ瀬は頭を下げた。
「すげえうまかったし……楽しかったです。ありがとうございました」
「なんだよ急に。それに、お礼は俺がする方だよ。あの時は様子を見に来てくれてありがとな」
「そんな。たまたまっす」
待ち合わせした駅に着いたら、別れなくてはいけない。朝からずっと楽しかっただけに、寂しさが押し寄せる。時計はまだ三時前。夏の終わり、夕暮れにはまだまだ時間がある。一ノ瀬は、思い切って問いかけた。
「先生、この後って……」
「ん?」
「なんか、予定あります?」
「んー」
宮田の顔が思案気になる。
「特にない、けど」
文末の「けど」が気になる。風呂でのぼせたのを助けたお礼に、食事をおごる。その約束はもう果たされた。生徒を特別扱いしない宮田は、やはりこれ以上付き合ってはくれないのだろうか。
「飯はおごったしさ」
――やっぱり。
「そうっすけど……。あー、あのままほっといたら先生、死んでたかもだよな」
「は? なんだそれ」
わざとらしく言い出した一ノ瀬に、宮田は呆れたような顔を見せた。
「俺、先生の命の恩人っすよ」
「やれやれ、飯だけじゃ足りないってか」
宮田は目線を外し、短く嘆息する。失敗したと一瞬落ち込んだけれど、一ノ瀬は諦められなかった。駄目で元々。必死で食い下がる。
「こんなん卑怯っすよね、分かってます。でも、もうすぐ駅に着いちゃう、終わっちゃうって思ったら、俺……。ダメすか、もうちょっとだけ。先生は生徒を特別扱いしないって言ってたでしょ。だから、駅に着いたらもう、もう二度と先生と出かけるなんて無理かもしんない。まだ三時だし、もうちょっとだけ! お茶するだけでいいから」
「腹いっぱいだよ」
「ううー……」
恨みがましい顔で睨んでも、宮田は正面から顔を動かさず、表情も変えない。
――やっぱダメか。
一ノ瀬も正面に体を戻し、肩を落としてため息を吐いた。宮田が横目でその様子をちらっと見たことには気づいていない。