どれだけの時間、そうしていただろうか。
見回りに来るはずの先生が姿を見せないから、ちょっと心配しているだけだ。別に顔が見たいとか、もやもやした気持ちを持て余しているからとか、そんなんじゃない。誰に言っているのか、言い訳めいたことを並べてみる。理論武装をしないと踏み出す勇気がなかった。
「……ふぅうう……」
大きく息を吐き出すと、一ノ瀬は思い切って宿直室の方へ足を踏み出した。
すりガラスから漏れる明りが在室を告げている。けれど物音がせず、人の気配を感じない。
「先生?」
ドアをノックしてみるが、反応はない。電気を消し忘れて見回りに出たのか。部屋からここまでは最短ルートで来た。見回りコースと違っていて、すれ違った可能性もある。
「……戻るか」
そう思ったが、何かひっかかるものがある。部屋の電気を消しておいてあげる、ということで中をちょっとのぞくくらい、いいだろう。またもやそんな言い訳がましいことを頭の中で呟いて、一ノ瀬は扉をそっと開けた。
部屋の奥には洗面所があり、小さいながらバスルームがあると聞いた。そっちにも電気がついているようだ。
――え、まさか風呂……?
男の風呂をのぞく趣味はない。当然だ。宮田を好きだという気持ちはあるけれど、その体を見て興奮したいとは思わない。ただ洗面所の電気までつけっぱなしというのは不自然に思えて、気になった。
「ちょっと、失礼しまーす……」
洗面所に入ると、風呂場に湯気が立ち込めているのが分かる。一ノ瀬は嫌な予感がして、反射的に風呂場の扉を開けた。男相手なら痴漢にはならないだろう。いや、この場合なるのか? そんな疑問が浮かびながらも中を見ると、宮田が浴槽でぐったりしているのが目に飛び込んできた。
「先生!」
慌てて抱き起すと、顔が真っ赤だ。湯あたりしたのだ。
「やっべえ……!」
びしょ濡れの、意識のない成人男性をお湯から引き上げるのは、思ったよりずっと大変な作業だったが、一ノ瀬は必死だった。気づいた時には、部屋の座布団に宮田を寝かせ、バスタオルをかけていた。水で絞ったタオルを額に乗せ、そこらにあったうちわであおぐ。誰かに知らせた方がいいのか悩んだが、宮田はすぐに意識を取り戻した。
「……あ……?」
「先生! 気が付いたっ?!」
「なんか、フラフラして……一ノ瀬? あれ、お前どうして」
「見回り来ないから心配して様子見に来たんですよ。そしたら先生が風呂場で倒れてて」
「あー……フォーメーション考えてたんだけど」
「のぼせちゃったんすか。もお……ほら、水飲んでください」
両手で顔を覆っていた宮田は、コップに入れた水を受け取ると一気に飲み干した。
「くあー! キーンときたぁ……」
「大丈夫っすかあ、ほんとにもう、先生やばいっすよ」
ぷるぷると頭を振っている宮田に、一ノ瀬は呆れたような安堵したような声をかけた。なんだか今の今まで息を止めていて、それを一気に吐き出したような気がする。
「いやホントに助かったわ。一ノ瀬が来なかったらやばかったな」
「本当っすよ……」
落ち着きを取り戻すと、宮田は自分が全裸なことに気づいた。
「一ノ瀬……なんつーか、その……」
「えっ、あ、ふっ、服着ます?」
「着る」
「ですよね、えーっと、俺、あっち向いてますねっ」
目を白黒させて、一ノ瀬は正座のまま飛び跳ねるようにして宮田に背を向けた。
「男同士でこのやり取りっておかしくねえか」
宮田はそう呟きながら、着替えを取り出す。寝巻代わりのジャージを着ながら、一ノ瀬を背中から観察してみる。肩に力を入れてかしこまっている様子は、なんだか忠実な大型犬のように見えて、宮田は思わず笑ってしまった。
「一ノ瀬さあ」
「はっ、はい!」
「もういいよ、こっちむいて」
「あ、はい……」
そろそろと向きを変える一ノ瀬に、宮田は気になっていたことを問いかけるべきかやめるべきか悩んで視線を投げた。一ノ瀬には、始業式で「お前が嫌いだ。もう個人的な話はしない」と言い放った。それ以来、本当に口を利いていない。もちろん、コーチとして、教師として、部員であり生徒である一ノ瀬と話すことはある。けれど、それ以上の会話は一切してこなかった。このまま卒業まで……ある意味、逃げ切ることが出来る。宮田はそう思っていた。
けれど、全然気にならないと言ったら嘘だ。あの時、思っていた以上に悩み、本気で苦しんでいる様子だった一ノ瀬。自分の気持ちを吐き出す一ノ瀬の射貫くような視線は、正直、痛かった。あんな風に人を好きになったり、悩んだりした経験が、宮田にはない。本気なら、きちんと受け止めてやるべきなのか。そう思ったりもする。ほんの僅かでも期待を持たせたらいけないと思ったからこそ突き放す発言をしたけれど、それが本当に正しいのか、自信がなかった。
今はどうなんだろうか。まだ苦しいのか。辛いのか。それとも、もう、大丈夫なのか。諦められたのだとしたら、どうしてここへ来たのか。何か言いたいことがあったのか。
沸き上がる疑問を、しかし宮田は聞けなかった。一ノ瀬は正座したまま、気まずそうにしている。
――助けてくれてありがとう。もう大丈夫だから部屋に戻れ。……そう言うべきなんだろうか。そうだよな。
口を開こうと決心した時、目の前の床に目を落としていた一ノ瀬が、唇を噛んで顔を上げた。一瞬、体に震えが走る。その表情に、のまれる。
――何を言うつもりなんだ。
怖い、と思った。宮田の眉がきゅっと歪む。それを見た一ノ瀬は、苦しげな表情を浮かべた。
「先生は……俺が、嫌いなんですよね」
「……」
何も言えなかった。そう言ったのは確かに自分だ。あの春の図書館で。お前が嫌いだ、と……。だが今、宮田は頷くことも出来ず、首を横に振ることも出来なかった。どくんどくんと鳴る自分の心臓を抑えられず、腹のあたりのジャージをぎゅっと握りしめた。そして、一ノ瀬から目をそらした。
――これじゃ、一ノ瀬の問いを認める形になってしまう。
慌てて視線を戻したとき、宮田は自分の浅はかな行動が相手をこの上なく傷つけたことを知った。
「違う」
小さな声で呟いたが、既に遅い。一ノ瀬は無言で立ち上がり、部屋を出ようとした。その服を引いて止めようとしたのは、宮田の無意識の行動だった。
「……いいんです。分かってますから」
「一ノ瀬、そうじゃなくて。今のは違う」
「何が。何が違うんですか」
「だから……」
勢いで否定したものの、上手く説明できない。咄嗟に引き留めたものの、言葉を紡ぐことが出来ず、宮田は一ノ瀬の前に立ち上がったまま、その目を見つめた。視線が揺れる。動揺を隠すことは出来ない。
「俺は……」
この上もなく悲しそうな顔で、一ノ瀬は宮田の言葉を待っている。
「正直に言う。俺は、まだ教師二年目で……生徒と、お前と、どう接すればいいか分からない。バスケ部をどうしていくのがいいのかとか、お前らをどう指導していくのかだって、ずっと手探りだし……」
突然語りだした宮田に、一ノ瀬は戸惑った。明らかに、いつもの自信溢れる宮田とは違う。こんな弱音を聞くことになるとは思わなかった。
「先生でもそんな風に不安に思うんですか」
「そりゃそうだよ。バスケには自信がある。それなりに。だけど、指導者としてはまだまだ力不足だ。だから……お前のことも、どうすればいいか分からないんだ」
「先生」
「大事な生徒に正面から向かい合うのがいいのか、それとも、前に言ったように個人的な話はしない方がいいのか……分からない」
そう口にしながら、宮田は既に後悔していた。どうしたらいいのか分からない、だなんて。生徒に本音を投げつけるなんてどうかしている。
「すまん。こんなこと、言うつもりじゃ」
「ははっ」
絞り出すように言った言葉にかぶせて一ノ瀬が笑う。
「一ノ瀬?」
「はは、はははっ……あはは……!」
「なんだ、てめぇ、人が真剣に」
「だって、だって先生も普通の人なんだって、俺らと変わらねえなって思ったらさ、あははは……」
――さっきまで泣きそうな顔してやがったくせに。
まだ目を潤ませたまま、力が抜けたように笑う一ノ瀬を見て、宮田はなんだかほっとしていた。