その年の冬は、いつもよりも強い寒波が列島を包み、珍しいと言われるほどの積雪があった。校舎から見える景色も、灰色と白に支配された世界。一ノ瀬は授業にも身が入らず、再び赤点ぎりぎりの成績を取った。
――そして春。
寒かった冬の割には春の到来はいつもと変わらぬ調子で、桜の似合う入学式だった。一ノ瀬は二年に上がった。一年前に宮田が赴任してきたんだったと、一ノ瀬は懐かしむように空を見上げる。あの時も確か朝練の後で……。
「うぉい! 立ち止まんなよ!」
後ろから小突かれる。
「っせーな」
振り向くと、木内が立っていた。
「てめえ、でかすぎて邪魔なんだよ」
「……去年から変わってねえな。俺ら」
「あん?」
木内は覚えていないようだが、このやり取りは一年前と同じものだ。なんで覚えているんだろう。こんな些細な事を。でも、きっとずっと忘れないかもしれない。たいしたことのない、小さな出来事が積み重なって、今の俺の記憶を作っているんだ。
「変な顔しやがって。入学式に遅れるぞ。ダッシュ!」
「いいよ、俺」
「は?」
「サボる。お前、行っとけよ」
「ああ……まあ、俺はいいけどよ。お前、ホントにサボるのか?」
無言でうなずく一ノ瀬を見て、木内は小さく肩をすくめると、身をひるがえして走り出した。
最近の一ノ瀬はいつもこんな感じだ。やる気がないというか、目がうつろというか。バスケをしていても、友達らと笑っていても、どこか遠くを見ているようで、時折ふっと表情をなくす。恐らく、宮田との事で悩んでいるのだろう、と、木内は見当がついていた。けれど自分に出来ることはない。それも、分かっていた。何度か吉沢と相談したこともあるが、二人の結論はいつも同じだった。一ノ瀬の心は一ノ瀬が決める。他の者に手出しは出来ない。
何とか一ノ瀬の気持ちを盛り上げようと、イベントを企画してみたこともあるが、一ノ瀬は少し寂しげな笑顔で礼を言うものの、以前のような快活さが戻ってくることはなかった。明るく、人の目を引くような華やかさは陰りを見せ、逆に大人びた落着きが彼を覆っていた。それは女子生徒たちにとって新たな魅力として映ったようで、一ノ瀬の人気はさらに高まっていたが、本人は彼らの好意に対して冷たくあしらう以外の対応は取らなかった。
既に人気がない渡り廊下を、一ノ瀬はポケットに手を突っ込んで歩いていた。向こうの校舎を抜け、校庭を渡ると図書館がある。今なら誰もいないだろう。静かな場所で、一人でいたい。図書館の入口は半地下になっていて、階段を数段下りる。レンガ作りの階段を下り、扉に手をかけたところで、背後から声がかかった。
「おい、こんな時間に何してる」
心臓が跳ね上がる。頭がかっと熱くなる。だが自身の変化を微塵も見せず、一ノ瀬は顔だけ振り返った。
「ちょっと図書館に」
「今は入学式の時間だろ。講堂はあっちだ」
親指で示す宮田を前髪の下から見上げ、一ノ瀬は首を振った。
「見逃してくださいよ。別に俺がいなくても問題ないでしょ」
「そういうことじゃない。きちんと出席しろ」
数秒そのまま動かなかった一ノ瀬だが、ふっと宮田から目をそらし、図書館の扉を押し開けた。
「おい、一ノ瀬」
宮田の声にも動きを止めず、そのまま図書館に入る。宮田はいらついた。最近の一ノ瀬はこうした行動が多い。部活の時も、部員との交流が減り、一人でいることが多かった。技術は上がっているが、以前のような熱さはない。叱れば、謝る。けれど、変化は見せない。
――俺のせいか。俺のせいなんだろう? そうなんだよな。
「分かってるさ」
そう呟いたが、どうすればいいかは分からない。
高校生の恋など、気の迷いのようなものだ。まだ若い。子供だ。本気の恋とは違う。そう思う。自分の経験と照らし合わせれば、本当に「あの子」が好きだったのかどうか、判然としない。多分、恋をしたかった、というだけ。カノジョが欲しかっただけ。大学が違って、しばらくしたら自然消滅した。寂しいとも思ったが、また別の子を好きになった。それも、本当に好きだったのか分からない。周りにはやし立てられて、付き合ったら気が合うからってそのまま。けど、相手が浮気して、そんなもんかと思った。その時も、友達と散々飲んで喚いて泣いて、しばらくしたら忘れた。
――そんなもんだ。
本当の「好き」なんて、宮田にもまだ分からない。十六歳の一ノ瀬なんかに分かってたまるか。それも、男相手だなんて、何か変な思いこみに決まってる。バスケ選手としての憧れがすり替わっているだけだ。
――ちゃんと言ってやらなきゃ。
我ながら教師らしいと思いながらも、自分は本当にそんな大人なのかと疑問に思う。だが、自信はなくとも自分は教育者だ。指導者だ。一ノ瀬がこのまま道を踏み外していってしまったら自分のせいだ。――追いかけよう。
司書の先生が図書館のカウンターに座っている。新刊本のチェックをしているひっつめ髪の彼女に、一ノ瀬がどちらへ行ったか尋ねた。
「入学式に行かなくていいのかって言ったんですけどねえ。どうしても今、調べないといけないって言うから……」
教えられた棚は分厚い辞書や事典がずらりと並ぶ場所で、日当たりも悪い図書館の一番奥だった。一列一列を覗きながらゆっくりと歩いていく。
「なんで来るんすか」
奥まった一角、見つけた一ノ瀬は本を探している様子もなく、追いかけてきた宮田を見て不満そうに言った。
「なんでって……当たり前だろう」
「ほっといてください」
「俺は教師だぞ」
「知ってますよ。でも、俺、行きませんから」
「あのなあ……。お前、拗ねるのもいい加減にしろよ」
「拗ねる?」
怪訝な顔で首をかしげる。こちらの言いたいことが分からないはずはないのに、と、宮田は腹が立つ。
「拗ねてなんていません」
「じゃあ、悩んでる」
「どうして? 俺は、先生が好きで、それ以上でも以下でもなく、別に悩むこともない。拗ねる必要もないです」
反抗的な物言いに、ムカつきが加速する。しかし、落ち着けと言い聞かせて、一つ大きく息を吐いた。自分は教師だ。十六の高校生と同じレベルで喧嘩しちゃいけない。
「入学式に行きたくない理由はなんだ。どうしてここにいる?」
「図書館、好きなんですよ。今なら誰もいないからいつもより静かだし」
「そういう問題じゃないだろう。生徒は全員入学式に参加する義務があるんだ」
「俺一人いなくたって問題ないっしょ」
「言い訳にならないな。スポーツをやる人間が規則を守れないというのはまずいんじゃないのか? そうだろう」
「それはそうっすけど……サボりたかったんで」
「なんでだ?」
「別に……」
一ノ瀬はふいっと顔をそらす。春休み中の部活のときにも何度か感じたが、最近、一ノ瀬はこうして宮田を避けようとする。好きだ、と言ってまっすぐに自分を見ていた目とは違う。言いたいことはあるが我慢している。そしてそれを自分でも考えないようにして逃げている。そんな風に見えた。それがイラつくのだと、宮田はようやく理解した。
「別にってなんだ。理由なくサボるなよ。調べ物があるようにも思えない。第一、今じゃなくちゃいけない理由もない」
「何でもかんでも理由があるってもんじゃないでしょ。なんとなく、行きたくなかったんですよ。それだけのことっす。担任でもないんだし、見なかったことにすればいいでしょう。先生に迷惑かかんないんだし、ほっといてください」
「そういうわけにいくか」
「先生には関係ない!」
吐き捨てた一ノ瀬の声は、彼自身が思うより大きかった。口をつぐむと、静かな図書館の空気が前よりさらに静まったように思える。宮田は二の句が継げずに黙り込んだ。
本棚と本棚に挟まれた薄暗い通路に、重苦しい沈黙が淀む。
「……くそっ」
舌打ちをする一ノ瀬。宮田は何と言えばいいか分からず、立ち尽くしていた。説得できるような雰囲気ではない。一ノ瀬がこんな風に激高するとは思わなかった。こんなことなら追いかけなければ良かったのだろうか。一ノ瀬の言うとおり、放っておいてやれば良かったのだろうか。この状況から、気まずさを払拭して立ち去るにはどうすればいいのだろう。宮田は逡巡していた。
目の前の大きな影が急に動き、宮田はふと顔を上げた。その目に一ノ瀬の顔が映る。それは急激に迫り、思わず後ずさった宮田の肩が本棚に押し付けられた。
「なんで……」
苦しげな呼吸の下から、一ノ瀬の低い声が漏れる。
「なんなんだよ? 普通、誰かと付き合って、デートして、キスしたり、えっちしたりして、この子が好きだなって思ってあったかい気持ちになったり、幸せな気持ちになったりさ……『好き』って、そういうんじゃないのかよ?」
突然に問われ、宮田はたじろいだ。何を言われているのか、何を聞かれているのか、咄嗟には理解できない。
「なんで? なんでこんな……苦しいことばっか! もう嫌だ。あんたのことなんて考えたくない。好きでいたくない。忘れたい。悪い夢だ、早く覚めろって毎日思ってんのに! もう、あんたの顔も見たくねえ……!」
一ノ瀬の語調は荒く、宮田の肩をつかんでいる両手に力がこもる。肩の骨が軋むほどの痛みを感じて宮田は思わず顔を歪めた。だがそれにすら気づかず、一ノ瀬はうつむいたまま、唇を噛んだ。
「なんで……? バスケしてても、遊んでても、家に居ても、誰と居ても、いっつもあんたのことばっか考えてる。なんでか分からない。好きかどうかももう分からない。でも……消せないんだ。どうやっても、忘れられない。考えたくないのに、考えちまう。こういうの、『好き』っていうの? なんなんだよ、これ。もう嫌だ。やめたい。逃げたい。出口なんてないこと、最初っから分かってんだ。どこまで行っても真っ暗闇だ。無理な相手を好きになって、諦めることもできなくて、考えないでいることも出来ない。俺は、どうすりゃいいんだよ。なあ、教えてくれよ!」
のらくらとかわしていた時と打って変わった、せきを切ったような一ノ瀬の激しさに、宮田は雷に打たれたような気がしていた。
――これほど苦しんでいたなんて、思いもしなかった。
息を切らして自分を見つめる一ノ瀬を、宮田はまっすぐに見つめ返した。長いようにも短いようにも感じられる数秒が流れ、やがて宮田は静かに言った。
「俺が間違ってた」
「……え?」
怪訝な顔の一ノ瀬は、宮田の顔が急速に凍るように冷たくなっていくのを見た。
「俺はな。お前の事が嫌いだ。お前が俺を好きとか言うのも嫌だ。金輪際、こういう話はするな。分かったか」
「……せん、せ、い……」
「離せよ」
両手を宮田の肩に置いたまま、一ノ瀬は動かない。唖然とした表情のまま、一ノ瀬は固まっていた。宮田は冷たい声で繰り返した。
「離せ」
「あ……はい……」
立ち尽くす一ノ瀬を邪険に払いのけ、宮田は本棚の間から抜け出した。窓から差し込む柔らかな日差しを背に、宮田は暗がりの中に立ち尽くす一ノ瀬を振り返る。
「これ以上、お前と個人的に話すことはない。じゃあな」
宮田はそう言い放ち、その勢いのまま歩み去った。後に残された一ノ瀬は、ただ奥歯を噛みしめていた。