一ノ瀬くんのリアル 13

油圧式のエレベーターが静かにゆっくりと三人を上階へ運ぶ。宮田の部屋は三階だった。1DKで、一人で住むには十分すぎるほど広い。台所を右手に見ながら狭い廊下を過ぎると奥がリビングだ。小さな座卓の上には雑誌や書類などが積まれ、そこらには無造作に洋服だのコンビニ袋だのが転がっている。ありていに言えば、散らかり放題というところ。

「いつもは、もちっと綺麗なんだけどな。今はこれだから」

宮田が上げた右手には手首から先全部に白い包帯が巻かれていた。指先二本が固定されている。

「痛そうっすねえ」

木内が溜息とともに言う。

「もう今はそれほどでもないけどな。鉛筆は持てないわ、パソコンも使えないわ、ケータイもいじれなくて……退屈持て余してるんだ。正直、お前らが来てくれて嬉しいよ」

「一ノ瀬がねえ。どうしても行くってきかなくて」

「木内!」

「いいじゃん、この際俺も知ってるってバラしといた方が楽じゃん」

「お前なあ……」

頭を押さえる一ノ瀬を背に、木内は調子良くしゃべりだした。

「先生が怪我したって聞いた時、こいつ口をこーんなに開けてぼけっとしちゃって。そんで見舞い行くから、って。ほんっと、こいつしょうがないっすよね」

宮田は面喰った。あっけらかんと話す木内と、目線をそらしたままの一ノ瀬。それは明らかに、木内が一ノ瀬の気持ち――宮田に対するそれ――を知っている事を示している。

「木内と……あと、吉沢にだけ、話したんす」

「話したって、お前、何を」

どこまで、と続けようとして宮田は言葉を飲み込んだ。

――これじゃ動揺しているのがバレバレだ。

「とりあえず、なんか飲むか。もらったやつ、お前らも開けていいから」

気を取り直して、宮田はコンビニ袋を指さした。座卓の向こうにあるソファに腰を下ろし、二人にも適当に座る場所を見つけるよう指示する。一ノ瀬と木内はそこらのものをどかして床に座った。

座卓の正面が窓で、ベランダに出られるようだった。その横に小さなチェストがあり、薄型のテレビが乗っている。左の壁に恐らく寝室と思われるドアと、大きな本棚。教師らしい本がいくらかとバスケ雑誌、それに洋楽の雑誌が並べられていた。

「あれ、もしかして」

ジュースを手にしていた一ノ瀬の目が、本棚に吸い寄せられる。

「うっそ、なんで……すげえ!」

手に取ったそれは一ノ瀬が惚れこんでいるロックバンド、ジャイルドライブの限定版アルバムだった。一ノ瀬がハマる数年前に出されたもので、一ノ瀬はこの中の一曲にしびれてジャイルドライブが好きになったのだ。

「フィフスが入ってるやつじゃないっすか! このジャケット……ヒュー?!」

「そういえば、お前の部屋にもジャイルあったよな」

宮田が意外そうに言った。一ノ瀬を説得しに行った時に見た記憶がある。だが、年代的には宮田たちからもう少し上の世代に好きな人が多いバンドだ。一ノ瀬くらいの若いファンももちろんいるだろうが、今の高校生が熱狂的にハマっているというほどのことはない。

「そのジャケット欲しさに並んだんだ」

自慢げな宮田を見て、話の分からない木内は首をかしげている。

「誰だっつーの?」

「ヒュー=アルバルトだよ。ジャイルのマネージャーで、ボーカルのジョーイの弟。ジャイルは四人組だけど、ヒューが五人目のメンバーって言われるくらい重要な人で……」

「ああ、だからフィフスね」

「そう。でも、死んだんだ。交通事故で。で、このアルバムが追悼っていうか」

一ノ瀬が勢い込んで説明すると、宮田も嬉しそうに続けた。

「詳しいじゃん。実際そのアルバムは既に製作済みだったやつで、それにヒューのために作られたフィフスを追加して限定版が作られたってわけ。ジャケットにヒューが入ってるのはそれだけなんだ」

「へえ」

「このフィフス、すげえいいんだ。英語なんて聞いても分からないって、木内、言ってたけどさ、これは違うよ」

「分かるっての?」

きょとんとした顔で問う木内に、一ノ瀬は手を大きく振って否定した。

「分からなくても感動すんの!」

「え〜……」

「ほんとだって! 泣けるんだぜ!」

「あ、そう」

「もう! リアクション薄すぎ! 絶対感動すっから!」

興奮している一ノ瀬ときょとんとした顔の木内。宮田は苦笑した。

「落ち着けって。聞いてもピンとこないやつはいるよ」

「そう、すかねえ」

「人それぞれだろ。でも俺は感動したよ。すごいよな。即興だって言うし」

「ロックバンドなんですよね? 激しい系の曲とかあんま聞かないし、俺」

「あ、違う違う。これはバラード。胸が痛くなるくらいの、切ない系」

「へえ。じゃ、今度聴いてみよっかな」

「そうしろ、そうしろ」

一ノ瀬は満足そうに笑った。

「で、先生。その怪我って、どうしたんすか」

「終わりかよ!」

一ノ瀬が突っ込み、宮田は思わず笑った。木内と一ノ瀬はいつもこんな感じだ。馬が合うのだろうか。こういう友人というのはきっと社会に出ても貴重な仲間として続いていくだろう。宮田は高校時代のバスケ仲間を思った。

「チャリで転んだって本当なんすか?」

「ああそうそう。狭い歩道をチャリで走ってた俺が悪かったんだけどな。前を歩いてる人を避けようと思ったら向こうから別のやつが出てきて、うっかりバランス崩しちゃったんだ。ガードに当たったんだけど、ハンドルがひっかかっちゃって、がりがりーっと」

「うわっ」

「痛そう!」

二人は大きな声をあげ、その時の様子を想像して顔を歪めた。

「指が二本いっちゃってな。しばらくバスケどころか仕事もちょっとなー。まあ治療はしてもらったし、一ヶ月くらいで治るみたいだけど」

「一ヶ月っすかあ」

「学校は明日から行くよ。何が出来るやら、だけど、ともかく行くだけはな」

「大丈夫なんすか?」

「うーん、何しろ右手だからなあ。そうそう、一ノ瀬のメールも返せてなくてごめんな」

話題が自分に振られて、一ノ瀬は戸惑う。何と返せば良いのだろう。

「あ、いや」

「惜しかったな。二教科だけ落したんだって? しかも数点だけ」

「そうなんす」

短い言葉に悔しさがにじむ。宮田は少しいじわるそうに笑った。

「ご褒美はお預けだな」

「や、それ、もう忘れてください。恥ずかしいっすから」

「一ノ瀬、何をお願いしたんだよ」

好奇心でいっぱいといった顔で、木内が尋ねる。言えるわけがない。一ノ瀬は頬を紅潮させて口ごもった。

「え、いや……」

「んだよ。せっかくここまで付き合ってやったのに」

「それは……だけどさ」

困り顔の一ノ瀬に、宮田が助け船を出す。

「その代りってもんでもないけど、お前らにちょっとした秘密を話してやろうか」

「え?」

「何すか?」

「どうやら高校教師がモテるってのはまんざら嘘でもないみたいだぜ。まあ俺の個人的魅力もあるんだろうけどな」

不遜な態度。だが、鼻につくほど不快ではない。宮田の人徳と言ったところだろうか。

「実は、とある女子生徒から交際を申し込まれました〜」

アナウンス調でおどける宮田に、一ノ瀬は絶句した。そのくらいの事は当然、予想していた。若い男性教師で独身、そこそこの容姿、バスケ部コーチとくれば、女子生徒の多くが憧れたって不思議ではないことだった。けれどその事実を宮田の声で聞いた時、一ノ瀬の胸がずくんと痛んだ。

「もちろん、断ったけどな。……生徒だから」

「え〜、もったいないっすよお!」

木内の言葉が遠くで聞こえる。

『生徒だから』

――そうだ。そうだった。先生はそういう人だった。新任の教師らしくて、潔癖で……。

「その話をした時にな、テストの点が良かったらキスだけでもして下さいって言われたんだ」

続けて話す宮田の視線はわざとらしく一ノ瀬から外されている。木内は違和感を持ち、ほんの一瞬、一ノ瀬を見た。一ノ瀬は平静を装い、宮田を見て話を聞いている振りをする。木内はどうやら一ノ瀬の動揺には気づかなかったようだ。だが、「ご褒美」がキスだったことは分かってしまったかもしれない。

「へえ〜。……で、その子の結果はどうだったんすか?」

分かっているのかいないのか、木内は無邪気な様子で聞いている。一ノ瀬は体を固くした。

「元から成績の良い方だったけど、今回はかなり頑張ったみたいで、平均八十ちょっとだったらしい」

「八十、すか……」

一ノ瀬の顔には明らかに落胆の色が浮かぶ。

「じゃ、じゃあ、キスしたんっすか?」

木内が前のめりになっている。こういう話題が好きなのだ。だが一ノ瀬はその続きを求める木内に腹が立った。

――黙れよ。

だがそれを声には出せず、一ノ瀬はそっと宮田を見る。宮田は、冗談めかして額を指さした。

「したよ。……おでこにね」

一ノ瀬は思わず安堵し、短く嘆息した。同時に木内が残念そうな声を上げたので、恐らく木内は気づかなかっただろう。

「先生、冷たいっすねえ」

「そうか? だって、期待させないようにしないとな。優しくする方がひどいと思う」

その声は、その場の雰囲気に似つかわしくないほど真剣味を帯びていて、一ノ瀬ははっと息を呑んだ。宮田は正直な事を言っている。本気で話している。これは、俺に向けられた言葉なんだ。一ノ瀬は瞬時に理解し、宮田の視線を受け止めた。

「……一ノ瀬、帰ろうぜ」

見つめ合う一ノ瀬と宮田を交互に見ていた木内は、やがてそう言って立ち上がった。

「先生、明日から学校来るんすよね。じゃあ、部活にも顔出してくださいよ。お大事に」

「おう、ありがとな。じゃ、気をつけて帰れよ」

宮田は一ノ瀬を見ない。それがまた一ノ瀬には辛かった。言うべき言葉が何も見つからないまま、木内に連れられるようにして一ノ瀬は宮田の部屋を後にした。

「しょうがねえよ。最初から、無理な相手だったじゃん」

別れ際、木内が漏らした一言が、一ノ瀬の胸に突き刺さった。

――そんな事は分かってる。無理だってことくらい、最初っから。

大きすぎる障害。嫌われはしなくても、好きになってもらうことはない。それでいい。自分が好きでいられればいい。そう思っていたのに。

『期待させないようにしないとな』

宮田の声が頭に響く。

――やっぱり、好きでいちゃいけないのかもしれない。

家に帰ってからも、翌日の授業中も、一ノ瀬は頭の中で宮田の声を繰り返した。

生徒だから。期待させないようにしないと。生徒だから……。

じゃあ、俺が生徒じゃなかったらどうなんだ。どうせあと二年もすれば卒業だ。

いや違う。そうじゃない。

生徒じゃなくなったって関係ない。俺は男だから。先生と同じ性別だから。

その女の子なら、卒業すれば想いが叶うかもしれない。卒業してからもう一度告白すれば、その時はもう生徒じゃないから。男と女だから。先生と生徒じゃないから。好きになってもらえるかもしれないんだ。

でも、俺は違う。

ずっと。

いつまで経っても。

この先、一生。

……先生には想ってもらえないんだ。

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