大学までのエスカレータ校では、試験の結果もそれほどの意味は持たない。そこそこに「悪くない」点数を取っていれば、大学へは間違いなく行けるのである。実に八割以上の生徒が大学へ進学する。留年なども滅多にない。それも、成績より素行や出席日数の問題だ。だから、ということもないのかもしれないが、生徒たちは試験さえ終われば天国である。ましてや帰ってくる試験用紙や成績表などに一喜一憂する生徒は少ない。一ノ瀬も、普段であれば冬休みに浮かれて友人らと遊んだり、普段以上にバスケ熱が上がったりするのだが、今回は別だった。
「どうなんだろう」
小さな嘆息とともに一ノ瀬の口から不安が漏れる。聞きつけた木内が顔を覗き込んだ。
「自分的にはどうなん? 自信あんのか?」
「多分……あーでもどうかなあ、分かんねえ!」
「冬休み、おやじさんは?」
「勉強してたの知ってるから、外出とか大丈夫そう。お前は?」
「もち平気。クリスマスは女バスと一緒にパーティやるってさ。行く?」
「そうだな、一応。あーでも駄目だ。神田先輩来るだろ」
「あ、そうか……」
「まあいいよ、別に」
「そかあ。俺は行くから、じゃあ一人で寂しく過ごせ!」
笑いながらからかう木内を軽く叩いて、うるせえと笑う。
――先生は、どうすんのかなあ……。
クリスマスや初詣など、恋人同士なら楽しそうなイベントがいっぱいある冬休みだ。けれど一ノ瀬は結局何もないままだった。宮田のところへ押しかけようかとも思ったが、試験の結果が出ていないのに行くのは良くない気がしてやめた。冬休み中の部活では宮田の態度に変化はなく、一ノ瀬もその話題は頭から追いやっていた。クリスマスは一人でバイクに乗って映画を見に行った。年始は父親の兄弟の集まりがあり、従兄弟たちと遊んだ。休み中にやったことと言えばそのくらいである。それより一ノ瀬は年明けのテスト返却が気になって仕方なかった。
そうして、短い冬休みはあっという間に過ぎて行った。
一月。三学期になり、返される試験の解答用紙。その一枚一枚に緊張が隠せない。担当の各教師が首をかしげる。
――一ノ瀬って、そういう生徒だったか……?
女の子は恋をすると綺麗になる、などと言う。ホルモンバランスのせいとも言われるが、好きな人がいると努力するものなのかもしれない。根拠も、真実かどうかも分からないが、確かに恋の力が奇跡を呼ぶこともあるのだろう。一ノ瀬は普段の平均が五十前後、赤点の一つや二つはあって当たり前という成績だった。それが今回は、恐るべきことにほとんどの教科で七十を超えた。
……そう。「ほとんど」の教科で。
「くっそお!」
予想以上に良い点数だと驚く木内と恭子の前で、一ノ瀬は机に突っ伏して喚いた。
「あとちょっとだったのにいいい!」
古典が六十八、地理が六十五という、まさに惜敗。
「あと五点くらいくれたって損しねえのに、くっそー……」
「そういう問題じゃないでしょ。いっちーってばそんなに悔しいの? 先生にどんなご褒美もらうつもりだったのよ」
「……」
「お前、まさか、人に言えないよーなことを」
「ばっ、馬鹿! んなわけねえだろ!」
「冗談だっつの」
木内が笑って言い、恭子がつられて笑った。一ノ瀬は曖昧な笑いを唇に浮かべたまま、嘆息した。
――やっぱ、俺、キスしたかった……んだよなあ。そういうこと、してえのかなあ。……男と? うへえ、マジかよ。
宮田のことを考えると、頭が熱くなる。好きだ、と思う。会いたい、とか、声を聞きたい、とか、普通に女の子を好きになったら思うことを思う。じゃあ、その先は? よくよく考えてみると、想像も出来ない。男とキスしたり、ましてやそれ以上のことなど、する気になれない。けれど、十六の健康な男子として正常といえる欲望は、やはりある。だからといって、宮田相手にどうしろというのか。一ノ瀬の思考はいつもそこで途切れる。
――俺、どうしたいんだろうなあ……。
宮田には、二教科で数点足りなかったことをメールで報告した。返事はない。二日経った。悔しくもあり、悲しくもあり、寂しくもある。が、結局はその程度なのかもしれない。
――所詮、イチ生徒、だし。
何度嘆息したか分からない。だが、改めて連絡するのも気が引けた。
――そういえば、昨日も部活来なかったな。
コーチとして、宮田は仕事熱心だった。部活にもほぼ毎回いるし、指導も力を入れている。だが今週に入ってから二日続けて休んでいる。一ノ瀬は宮田の授業がないので、部活以外で宮田の行動を把握する術がなかった。
が、宮田の休んだ理由はすぐに判明した。その日の部活で主将の谷中がこう言ったのである。
「今日もコーチはお休みだ。どうやら怪我したらしい。明日から来るという話だ」
それを聞いた木内が横をそっと見ると、口が半開きになった一ノ瀬がいた。
――あっちゃー……。
「おい……おい、一ノ瀬」
肘でつつき、小声で知らせるとようやく我に返ったような顔で木内を見た。軽く片手で感謝の意を表し、一ノ瀬は正面に向き直る。
「コーチがいないからって、気を抜くなよ! 今日は俺がたっぷりしごいてやっからな!」
普段から声の大きい谷中はいつに増して気合いが入っている大声を出した。部員たちはみな苦笑しながら肩をすくめたリ、顔を見合わせたりしている。ざわついた隙に、一ノ瀬が木内に囁く。
「見舞いに行く。付き合ってくれよ」
「えっ、マジ? 俺も行くのかよ」
「よおおおおおし! まずはダッシュからだ! 二十本〜!」
谷中の号令で部員たちが動き出す。一ノ瀬も走り出しながら木内に両手を合わせ、木内はしょうがねえなと肩をすくめてから頷いた。
二人はほかの部員たちと同様に谷中のしごきに耐え続け、部活が終わった後はすっかり疲れ果てていた。木内が愚痴る。
「やりすぎだよ、主将は」
宮田の家までは歩いて行くことにした。普段、宮田は自転車通勤していると聞いた。電車を使おうとすると駅までが遠いので歩いてもたいして変わらないという。だがそれなりに遠い距離を歩くのは大変だ。普段ならまだしも、部活のあとではエネルギー補給をしなければもたない。一ノ瀬と木内はファーストフードをぱくつきながら歩いていた。
「まあでもさ」
大きなハンバーガーの塊を無理やり飲み下しながら、一ノ瀬は言った。
「……あれじゃん。気合い入ってんのはいいことじゃん」
「そりゃそうだけどさ。もー足がくがくだぜ、俺」
「それは俺も」
やれやれと言った顔で一ノ瀬はあたりを見渡した。
「このへん、だよな」
ケータイで確認すると、宮田の家の住所付近なのは間違いがない。
「ロイヤルコート? こういう訳分からん名前、何とかしろって感じだよな。普通のアパートだろ、きっと」
「だろうな」
「すげえ名前のとこに限って古いぼろアパートでさ。二階建てくらいのちっちゃくて汚い……」
「お前、想像力すごくね?」
「そういうのって、ありそーじゃん」
「どうかなあ」
いつもの調子でしゃべりながら、二人はしばらくあたりをうろついた。ここらは住宅街で、似たような家やアパートがずらっと並んでいる。小さな公園の脇にコンビニがあったので、一ノ瀬と木内は場所を聞こうとそのドアを開けた。その向こうにまさか宮田当人がいるとは思わなかったのだが。
「先生!」
「……おっ? なんだお前ら」
「なんだじゃないっすよ、先生が怪我したっていうから、俺、見舞いに……」
一ノ瀬が非難めいた声を上げると、宮田は「そうかぁ」と言って顔をほころばせた。その顔に、一ノ瀬は思わず見とれてしまう。美形という訳でもない、取り立てて目立つ容姿でもない、ごく普通の二十代男性。なのに何故、こんなに惹かれるのだろう。
「先生んち、この近くっすよね」
木内の声で我に返る。
「そうそう。この裏っていうか、まあすぐ近くだ。せっかく来てくれたんだ、寄ってけよ」
「ういっす」
「お邪魔しまっす」
コンビニで差し入れ――缶ビールを数本とジュース、スナック菓子――を購入する。数分後、三人は小さいながら小奇麗なマンションを見上げていた。
「駅から遠いからな。結構安いんだぜ」
宮田の言い訳がましい前置きとともに、一同は綺麗な五階建てのマンションに入っていった。
「どこがちっちゃくて汚いぼろアパートだよ」
木内をつついたが、相手は小さく舌を出すだけで応えた。