「しっかし……テストのヤマは張ったけどさあ。俺、ちゃんと覚えられんのかなあ。なんせ、うちで何も出来ねえから」
「先生のことばっか考えちゃって?」
恭子がにやにやと笑う。
「だって……部活中はシャットアウトしてるからさ、うち帰るとその反動で……」
「それで寝不足、かよ。ほんっと、恋しちゃってんなあ」
「るっせえよ」
一ノ瀬は木内を腕で押した。しかし自分の勉強不足は間違いない。このままでは……と嘆息すると、恭子が両手をぽんと叩いた。
「ね、先生にご褒美もらえば?」
「ご褒美?」
「このままじゃ冬休みもクリスマスも真っ暗じゃん。でもテストの結果が良かったら、先生とデート! とか。やる気出そうじゃーん! どう、どう?」
「どう、って……恭子、それは俺から頼むわけ? 先生が言い出すとかならまだしも、俺が言って通るわけねえじゃん」
片手を振って否定する一ノ瀬。だが木内の反応は一ノ瀬と違った。
「分からねえよ、もしかしたらOKもらえるかも。ていうか、もしダメでもさ、先生の家に行って頼むんだよ。そしたら頼む間だけでも二人でいられんじゃん」
そんな事は考えてもみなかった。一ノ瀬は、頼むとすれば職員室か部活の後にでもと思っていたからだ。
「先生の、家?」
「事務室とかで聞けば、多分、教えてくれるんじゃないかな」
恭子が言えば、木内も乗り気で続ける。
「それより、先生に年賀状出したいんでって言えば教えてくれるだろ」
「そうだよね、やっぱそれが確実か」
「いきなりより、ちゃんと言った方がいいだろ」
「押し掛けるってのも良くない?」
「それもありかあ」
二人は一ノ瀬をそっちのけで楽しげに話している。一ノ瀬は二人の間に両腕を突っ込んだ。
「ちょっと待て。お前ら、他人事だと思って遊んでんだろ」
「やだ、そんな事ないよ〜」
「俺らは一ノ瀬の恋が上手くいくよーにだなあ」
「嘘つけ、絶対遊んでる。俺はそんなことやんねえからな」
つまらなそうな二人を尻目に、一ノ瀬はさっさと帰り支度を始めた。
だが、家に帰っても相変わらず勉強に手がつかない一ノ瀬である。教科書やノート、参考書などを机に出してはみたものの、開く気すら起こらない。シャーペンをもてあそびながら、ぼーっと中空を眺めたままだ。何を考えているかと言えば、昼間の二人が言っていたこと。先生の家はどんなだろう、普段はどんな服を着ているのだろう、今は何をしているのだろう……。
――駄目だ。これじゃマジで勉強できねえ!
ついに一ノ瀬は立ち上がった。諦めたというべきか、決意したというべきか。ケータイを手に取る。試合などの連絡に使うからということで、部員はみな宮田の連絡先を知っていた。
――メールかな……ああでも返事が来るまで待てねえよ。悶え死にそう。……いいや!
電話番号を表示し、勢いで通話のボタンを押す。耳に当てるとほんの少しの間があってコールが鳴った。
――うわああ、やべえ、心臓飛び出るー!
歯を食いしばる。五回目のコールが途中で切れ、耳元で宮田の声がした。
「おう、どした。こんな時間に」
慌てて腕時計に目を走らせる。いつの間にか十一時をとっくに回っていた。
「あ、すんません! あの……俺……」
言葉に詰まる。何を言うか、考えておくべきだった。電話するだけで、住所を聞くだけで、こんなに緊張するなんて。手や額に汗が浮くのが分かる。呼吸が荒くなっているのがばれてしまうだろうか。そんな余計な事ばかりを考え、肝心な言葉が出てこない。一ノ瀬は頭を大きく振った。
「すみません、先生、あの、唐突なんですけど、手紙、じゃなくて、れんがじょう……」
「は?」
ろれつが回らない。唇を舌で舐めて言い直した。
「先生に、年賀状を出そうと思って……んで、住所……」
「ああ、住所。ちょっと待って」
向こうで何か探る気配がする。
――先生。好きだ。声を聞いてるだけでどきどきするよ。……会いたい。もっと近くで先生を見たい。先生……。
一ノ瀬の家から思ったより遠くはない住所を読み上げる宮田の声を聞きながら、一ノ瀬は目を強くつぶった。空いている片方のこぶしを握り、それを額に当てる。冷たい。頭に血が上っているのか。
「聞いてんのか? 一ノ瀬」
「あ、ああ、すみません……あ、俺、メモってませんでした。すんません、もう一回いいっすか」
「おいおい大丈夫か」
苦笑する宮田の声が聞こえ、一ノ瀬は胸に締め付けられるような痛みを覚えた。
――俺、ガキみてえ。これだけのことなのに……。
もう一度住所を読んでもらい、今度はちゃんとそれを書きとる。
「あの、先生」
「ん?」
「明日の日曜って、何か、あります?」
「何かって」
「あの、ちょっと、頼みたい事があって、先生んちに行きたいんですけど……」
「今じゃ駄目なのか?」
「え、あ、えと……」
「何もうちまで来なくても、今、言えばいいだろ」
「そう、すね」
当然と言えば当然の展開を、一ノ瀬はまったく想定していなかった。慌てて考えをまとめようとするが、何を言えばいいのか混乱してしまう。
「えーとですね、その……俺、試験やばいんす」
電話の向こうで宮田が小さく笑う。その様子を、一ノ瀬はまざまざと想像できた。心拍数は上がりっぱなしだ。一ノ瀬は勢いをつけて一気にしゃべった。
「マジでやばいんすよ。先生の事ばっか考えてて全然勉強が手につかないんで。でも、赤点取っちゃうとレギュラーから外されるじゃないですか。それって、困るじゃないっすか。ていうか自分で言うことじゃないけど、チーム的にもどうなのかなっていうのがあって。で、先生に協力してほしいんです」
「協力? カンニングの手伝いなんかしねえぞ」
「違うっすよ。だから……俺のモチベーション上げるために……その、俺がいい点取ったら、キスしてください!」
「おいおい」
「ご褒美っつーか、目標があれば勉強できると思うんすけど……」
「甘ったれんな」
突き放すような言い方に、熱くなっていた一ノ瀬は言葉を失った。少し冷静になれば、そんなリクエストが通るわけはないと気づく。どの生徒も特別扱いしないと言った宮田である。一ノ瀬の要求はまさに自分を特別扱いしろと言うようなものだ。
――ちきしょう、あいつらに乗せられてしくった……。
うなだれる一ノ瀬だったが、耳を疑う言葉が聞こえて飛び上がった。
「ま、いいか」
「えええ! マジすか!」
「ちょい待て。いい点ってのはな、赤点ゼロは当たり前だぜ?」
「うっ」
「もちろん平均点ってレベルでもない」
「ええ〜」
「そうだな、全科目で七十点以上取れ」
「ちょっ、先生! それはいくらなんでも無理……」
「俺のキスは安かねえんだよ。ま、せいぜい頑張れ」
それだけ言うと、宮田との通話は突然に切れた。あんぐりと口を開いて、一ノ瀬は立ち尽くす。
電話を切った宮田は、一つ息を吐く。
「ま、これで大丈夫だろ」
今のやり取りで緊張していたのは一ノ瀬だけではなかった。宮田も動揺を悟られまいと精一杯だったのだ。電話で助かった。家に来られていたら恐らく気づかれただろう。そうしたら、一ノ瀬はどう思うだろうか。傷つくだろうか。いや、どう思おうとそれは一ノ瀬の勝手だ。あまり個人的な部分に踏み込んでは良くない。先輩教師にも、生徒一人一人にのめり込むなと釘を刺された。
……色々考えだすときりがなさそうなので、それ以上深く考えるのはやめにして、宮田は試験問題の作成に取り掛かった。ちょうどやろうと思ってパソコンを起動させたところだったのである。
ノートにまとめてある問題をワードに書き、点数を割り振っていく。だが、その手が止まる。
――まさか、取らないよなあ。七十点なんて……。
宮田の頭に、先日のキスがよぎる。もてるというほどでもないが、今までに三人くらいは付き合った彼女がいる。けれど、あんなに熱いキスをした記憶はない。いや、あったのだろうか。思い出せないだけなのかもしれない。一ノ瀬のキスで上書きされて……。
――何考えてんだ、俺は。
振り払おうとするかのように頭を激しく振り、宮田は再び画面に向かう。けれど、その指先の動きは先ほどまでのように軽快ではなかった。