一ノ瀬くんのリアル 10

終業式が終われば待ちに待った冬休み。クリスマスや正月が待っている。だがその前に期末試験だ。一ノ瀬の父親は成績にうるさい。普段は放任に近いものがあるが、終業式前に呼び出しでも食らおうものならクリスマスは外出できないと思って間違いない。一ノ瀬もそういう父親を知っているし、勉強はするつもりだった。バスケ部でも、「成績を落とす者はレギュラーにしてやらん」と言われている。だが……。

「ダメじゃん、いっちー!」

授業中に爆睡していた一ノ瀬を叱咤したのは、別れても親しくしている吉沢恭子だった。授業が終り、苦虫を噛み潰したような顔の地理教師が出て行った後も、一ノ瀬は机に突っ伏している。

「起きろよ、一ノ瀬」

木内が後ろ頭をどつく。

「ってえ! ……何すんだ」

「っじゃねえよ。寝過ぎだろ、てめえ」

「ほっとけよ、もう」

ぼりぼりと頭をかいて、一ノ瀬はようやくむくりと上体を起こした。恭子が腰に手を当てて嘆息する。

「どうしたの? 最近」

「んあ?」

「ほっとんど寝てるじゃん。そんなんで期末、大丈夫なの? もう来週だよ?」

「ああ……そうだっけ。いやあ、最近なんかさあ、眠れないんだよ、夜……」

「寝不足なのか」

木内にこくこくと頷いて見せ、恭子には両手の平を見せて「お手上げ」と示して見せる。

「試験勉強やってんの?」

「なんも……」

「夜、何やってんだよ」

問いかけた木内に肩をすくめるだけで対応する。一ノ瀬が眠れない理由は単純で、つまりは恋煩いである。けれどそれは二人に言いにくい。木内に言ったら相手が誰か知りたがるだろうし、もちろん男だなんて言えない。ましてや恭子は、それが原因で別れたのだ。言えるわけがない。一ノ瀬は大きく息を吐きだした。

「……帰るわ」

力なく呟いた一ノ瀬に、木内と恭子が顔を見合わせる。何やら打ち合わせしていたようだ。木内が一ノ瀬の腕を掴み、恭子と声を合わせる。

「ちょーっと待った!」

「な、何だよ、お前ら……」

「一ノ瀬貴也、強制連行する」

「はっ?」

「黙ってついてこい!」

木内と恭子に引きずられるようにして、一ノ瀬は図書館へと拉致された。試験の対策が何もないと言ったら実行しようと、木内たちが前もって話していたのである。理由はさておき、元気がない一ノ瀬に、せめて試験のヤマくらいは張ってやろうという二人の友情。一ノ瀬はそれを知って照れくさかったが、二人に小さく礼を言った。

三人が頭を突き合わせて教科書やノートを広げ、ペンやシールで印をつけ、また小さなノートにまとめを作ったりしたのは、およそ数時間。一ノ瀬はもちろん、恭子と木内の頭も疲れてぼーっとしてきた頃、ようやく勉強会はお開きになった。木内がシャーペンを投げ出し、図書館の天井に向かって吐息する。

「もー駄目だわ、集中が続かねえ。……ま、こんなもんで何とかなるっしょ」

「そうかなあ」

恭子がまだ足りないといった様子で首をひねる。一ノ瀬は苦笑して前髪をかきあげた。

「恭子ってホント容赦ねえのな」

「誰のためだと思ってんのよ」

「へいへい」

木内は黙って上を向いたまま、二人のやり取りを聞いている。ぴくりとも動かない木内の様子を変だと思ったのか、恭子が声をかけた。

「……どしたの?」

木内は迷っていた。一ノ瀬が言うまで黙って待つべきか、それとも聞いてほしいと思っているのか、分からなかったからだ。けれど、やはり自分自身でも気になって仕方ない。天井を振り仰いだその姿勢のまま、思い切って口を開く。

「一ノ瀬、さあ」

「あ?」

「……なんで恭子と別れたん?」

恭子が慌てた様子で制止しようとしたが、一ノ瀬は片手を挙げて黙ってという仕草をしてみせる。

「俺が振られたんだよ」

「マジ?」

慌てた木内は一ノ瀬に向き直る。そういう展開はあまり想像していなかった。何故なら恭子は一ノ瀬が好きでしょうがないといった様子だったから。別れた後、教室で恭子と話したことを、木内は思い出していた。「話し合って別れたけど、本当はまだ好きだから……」と言って泣いていたはずだ。なのに何故「恭子が一ノ瀬を振った」ということになっているのだろう。木内はその疑問をそのまま顔に出していた。恭子は気まずそうに下を向いている。一ノ瀬は二人の様子に気づき、しばらく逡巡したが、木内にもいろいろ迷惑をかけたことを思う。そして、決意した。

「……お前らには、全部話すわ。もしかしたら、今日で友達終わり、とかかもしれねえけど……言わないのは卑怯だし」

「ちょっ、何それ。友達って終わるもんなの?」

恭子が怒った顔を隠そうともせず言う。

「分からねえよ。とりあえず、聞いて」

一ノ瀬のまっすぐな視線を受け、恭子は唇を噛んだ。一ノ瀬は視線を机に落とし、ゆっくりと話し出す。

「どういう風に話せばいいか……その、恭子と付き合ってる時、俺は本当に恭子が好きだったんだよ。や、今も好きだけどな」

「いっちー」

「でも、恭子は俺に『いっちーには好きな人がいる。私じゃない』って言った。……その時は、嘘だと思ったんだけどな」

「認めなかったよね」

「ああ。その瞬間は、何言ってんだって思ったぜ。……でも、よくよく考えたら……いたんだよ。頭ん中に」

「誰が?」

当然、といった調子で木内が聞く。だが一ノ瀬はそれに答えられなかった。黙って首を横に振る。

「恭子のこと、傷つけて、マジで悪かったって思ってる。でも、自覚なかったから……。許してくれよ」

「うん、それはもう、いいよ」

「……さんきゅ。……そんで、俺……頭の中の、その人のことを考えてみた。本当に好きなのかどうか、とか……」

静かな図書館の一角で、一ノ瀬の小さな声がぽつりぽつりと落ちた。冬の柔らかな日差しが窓辺に薄い影を作っている。一ノ瀬は次にどう言えばいいか分からず、黙ってしまう。恭子は「やっぱり」と思いながら、そして木内は息を呑んで、言葉の続きを待った。

「その人、はさ……年上で……七つも上なんだ。……それに、その、先生なんだ」

「ええっ!?」

思わず大きな声が出て、木内は口を手で押さえた。テストが近いせいか、いつもより人が多い。慌てて首をすくめ、木内は一ノ瀬に椅子を近づけた。

「先生って、マジかよ。うちのガッコの?」

一ノ瀬はこくりと頷く。

「誰……?」

「わりい、ちょっと待って。……そんで、俺、学校休んだろ」

二人の同意を見てから、一ノ瀬は言葉を継ぐ。

「その時さ、その、先生と話す機会があって……どうしてもって状況になっちゃって、しょーがなくだったけど、告ったんだ」

「マジ……! っと、やべえ、またやっちゃうとこだった」

木内が手を口に当てる。

「先生は、生徒を相手にしないって言って……でも、俺が好きでいても、嫌いになったりしないって言ってくれた。で、その……誰かって、いうと、だな」

思わず、木内は身を乗り出す。一ノ瀬は二人の顔を順番に身比べ、気まずそうな顔で嘆息した。

「……宮田先生」

木内は唖然とし、恭子は両手で紅潮する頬を押さえている。一ノ瀬は時間がまた動き出すまで、長い長い間があったような気がした。が、それは実際数秒だった。

「言いたくなかったんだけど……お前らだけには言わないと、と、思って……多分、どん引きだろうけど、頼むから他の奴に言ったりだけはしないでくれ」

「そ、そりゃ言わないけど……マジで? 宮田先生って、コーチの宮田先生だよな? 冗談とかじゃ、ねえよな? 入学式からお前、憧れの先輩って言ってたけど」

「言っとくけど、俺、ホモとかじゃねえからな。恭子は分かってると思うけど」

「うん」

「だから、俺もすげえ悩んでさ。好きっつってもどういうことか良く分からねえし。でも、やっぱ好きで……。もー学校辞めようとか思ってたんだ。でも、先生が、その、好きでいてもいいって言ってくれたから、実りゃしないのはもちろん分かってるけど、それでも、先生が俺の事、気持ち悪いとか思わないでくれるって言うからさ、だから……俺さ……」

一ノ瀬はそこまで来ると口ごもった。まとまらない言葉。友人二人にどう思われただろうか。やっぱり、拒絶されるんだろうか。そんな一ノ瀬の不安をよそに、恭子の明るい声が聞こえて、一ノ瀬は思わず顔をあげた。

「そっかあ……やっぱりねえ。いっちーの好きな人、宮田先生だったんだ。これで納得したわ」

「はあ?」

「今だから言うけど、いっちーが部活休んだ時、先生から電話あってね。何か知らないかって聞かれたんだ。いっちーに好きな人がいるんだってことは分かってたけど、誰かは分からなくて。その人のことで悩んでるのは間違いないけど、部活休んでるってことは部員の誰かじゃないか、って。で、考えたらいっちーはいつも先生の話してた。すっごく上手いとか、どんなプレイしたかとか、そういうのばっかり。どんだけバスケ好きなんだって思ってたけど、宮田先生が好きだったんだよね。先生には言えなかったけど、きっとそうだって、思ってたんだ」

「ちょ、ちょっと待てよ、吉沢」

興奮してまくし立てる吉沢に、割って入ったのは木内だった。彼はまだ理解できずにいる。

「男だぜ? 何それ。有り得なくね?」

「有り得ねーよなあ」

「だろ? って、お前が言うな!」

「ははっ、そうだよな、俺の話だよな」

一ノ瀬は思わず噴き出した。木内と話していると、いつも掛け合いになる。

「いやでもさあ、なんか良く分かんねんだよな、自分でも。尊敬とか憧れとか、そういうのもごっちゃ混ぜでさ。でも、やっぱそれだけじゃなくて。部活中とかももーずっと見つめちゃって、やばいじゃん? パス受け損なったりもするしさあ。そんでもうバスケなんか出来ないってなって、お前にも迷惑かけちゃったよな。……まだちゃんと謝ってなかったっけ。あの時は、悪かったな」

「あ、ああいいよ、それはさ……なんつーか、インパクトでかすぎて吹っ飛んだわ」

木内は呆然と呟く。

「まあさ、今はもう吹っ切れたし、バスケ一色だから。先生が好きってのはあるけど、普段は極力出さないように気をつけてるし、部活んときも、先生ばっか見ないようにしてるから、分からなかったろ?」

「ていうか、男子バスケ部員の誰かが先生好きで見つめてるなんて想像しねえって」

「ああそうか、そうりゃそうだよな」

三人の笑い声が響き、周りの生徒たちが何事かと振り返る。慌てて首をすくめて、三人は小声で笑った。

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