バスケ部の練習は火、水、木と土曜日の四日間。日曜日は練習試合などが入ることも多いので、月曜は休養のために休みだ。そこから部活が三日続くので、金曜も休み。そして土曜日は週のまとめということで、午後いっぱいやることになっている。
一ノ瀬が久し振りの部活に顔を出したのは、その土曜練の時だった。
「てめえ、今まで何してた!」
主将である三年の谷中が大声を出す。だがそれは叱責や追及ではなく、帰ってきた仲間に対するものだ。
「すんません」
一ノ瀬は主将の声に温かみを感じたのか、思い切りよく頭を下げた後、照れくさそうな笑顔を見せている。主将は舌打ちをし、一ノ瀬の頭に軽いげんこつをくらわせた。それを皮切りに一ノ瀬は男子部員みんなの洗礼を浴び、それぞれに謝りの言葉を言った。
「よし! じゃあ地獄の土曜練、始めんぞ!」
バスケは走り、またジャンプするスポーツだ。ポジションによってその差はあるが、とにかく足が大事だ。ボールの扱いもそうだが、基礎練習はどれだけやってもきりがない。彼らにとって、土曜は体力の限界に挑戦する日だった。体育館の窓が夕焼けで赤く染まるころ、部員たちは皆同様に息切れし、肩を揺らしていた。クールダウンのために軽いストレッチをする。また、マッサージをして、張ってしまって熱を持った筋肉をほぐす。そうしてようやくその日の練習が終りになった。
「つれー! 辛すぎる!」
「早く着替えて帰ろうぜ」
「帰りは大青軒だな。俺、大盛り確定だ」
「おい、一ノ瀬も行くだろ?」
行きつけのラーメン屋に誘われた一ノ瀬は、黙って頭をかき、それから小さく首を振った。
「俺、もちょっとやるから」
「はあ?! 何言ってんだ、今日だってずっと飛ばしてたのに」
木内が大げさに仰天してみせる。主将の谷中が、分かっている、というように一ノ瀬の肩を叩いた。
「休んでた分を取り戻そうというのは分かるけどな。急にやりすぎても良くないぞ」
「そう……っすね。けど、やっぱりもうちょっとだけ。納得いかないんで。無理はしないっすから」
「そうか。まあ、明日は何もないからいいけどな。ほどほどで切り上げろよ」
「ういっす」
主将が出ていくのを見送ると、木内はしばらく一ノ瀬の顔を見つめた。結局、なんで学校や部活を休んでいたか、そしてまた来るようになったか、木内は何も聞いてはいない。その内話してくれるだろう、とは思っている。けれど、自分から聞けはしなかった。いずれにせよ、うやむやにされるのは嫌だ。木内はそう思っていた。
「俺は付き合わねえからな」
その言葉に、木内は「許してるわけじゃない」というようなニュアンスをこめた。一ノ瀬に伝わっているかどうか、それは分からない。
「ああ、いいよ」
「けっ」
短い返答にいらつきを感じた木内だったが、一ノ瀬の顔を見るとやけに神妙だ。
「……わりぃ」
「別にいいけどよ。……今度、ちゃんと話せよな」
「ん……」
煮え切らない様子ではあるが、一ノ瀬が木内に対してきちんと対応したいと思っているのが分かる。木内は友達を信用することにして、相手の胸を小突いた。
「じゃな。練習がんばれよ」
「さんきゅ」
誰もいなくなった体育館で、一ノ瀬はシュート練習を始めた。ボールとゴールリングだけに集中する。休んだ間の練習不足を取り戻したい。その思いは強かったが、それより何より、とにかく何も考えないでいたかった。バスケだけに集中したかった。余計な事を考えすぎて身動きとれなくなるのが、一ノ瀬にとって一番息苦しく、耐えがたい。
どれだけの時間が過ぎたのかも判然としなくなったころ、一ノ瀬は背後に人の気配を感じた。恐らくそれは鍵を閉めなくてはならないために一ノ瀬に帰宅を促しに来た人物。つまり顧問であるおじいちゃん先生か、あるいは……コーチの宮田である。一ノ瀬は振りかえれず、もう一度シュートを打った。後ろの人物は黙っている。かごに残っているボールは五つ。
――これが全部終わったら振り返ろう。
そう決めて、ボールを手に取り、シュートを打つ。入らない。もう一つ。やはりミス。
――ちきしょう、気が散る……!
「すまん」
その声に一ノ瀬は思わずびくついた。思ったとおり、それは宮田の声だった。
「……なんで、謝るん、すか?」
振り向けないまま、一ノ瀬は問いかけた。どういう意味だろうか。何を謝っているのだろうか。やはり二日前の事が……。
「俺がいると集中できないだろ」
一ノ瀬が振り向くと、宮田が頭をかいていた。
「最後までやってから言えば良かったかな」
宮田の表情は、以前と変わりないように見える。練習中も特に一ノ瀬を意識しているようには見えなかった。それは宮田の努力によるもので、宮田はその努力が外に見えないように気を遣ってもいた。一ノ瀬は恐らくそうなんだろうと思いつつ、自分は相手を意識しないではいられなかった。
「先生」
「ん?」
「その……迷惑かけて、すみませんでした」
「ああ、いや、いいよ。出てきてくれて良かった。これで県大会も上位狙えるぜ」
「はは……」
一ノ瀬は、足元に転がっていたボールを軽くつきながら思いを巡らせた。
「この二日、俺、死ぬほど考えたんですけど……」
「あ、ああ」
――やっぱりこの話題は避けて通れないよな。
宮田は思わず身構え、だがそれを相手に悟られないように平静を装った。
「もし先生が女の先生だったら、俺、学校休まなかったと思うんす。先生と一緒にいられる方がいいじゃん? 好きな人、見てたいし、少しでもそばにいたいと思うもん。んで別に、付き合うとか、そういうの全然考えなかったと思うし、告白とか……しなかったと思うんすよ。俺が学校休んだから、何でかって言わなきゃならなくなっただけなんすよね」
「まあ、そうだよな」
一ノ瀬はゆっくりとボールをつきながらしゃべる。宮田と目を合わせることは出来なかった。
「俺がなんで悩んだかっていうと、先生が、男だから……」
そこで言葉を切り、一ノ瀬は思い切って宮田の顔を見た。嫌悪感や憐憫などがほんの少しでもそこにあったら、一ノ瀬はそれ以上何も言えなかっただろう。けれど宮田は表情を変えず、無言で続きを促した。一ノ瀬の胸が、ぎゅっとしめつけられるように痛んだ。涙がにじみそうなくらいだ。それが何故か、自分には分からない。
「俺が……先生を好きでいたら……迷惑、ですか?」
絞り出すように呟く。宮田の無言が怖かった。宮田は前髪をかきあげ、体育館の高い天井を見上げている。
「……俺はさ、教師だろ。そりゃ、色んな人がいるけど、教師ってのは特定の生徒を特別扱いしないことになってるし、俺もそうしたくはない。まだ新米だし、お前たちとそれほど年も違わないけど、でも、俺は教師だからさ」
一ノ瀬の問いに答えず、宮田はゆっくりと話し出した。一ノ瀬は当然、宮田もこの二日間、様々なことを考えた。ある程度まとまった答えを、どう言ったらいいか。
「バスケ部のやつらは可愛い後輩でもあるし、俺は担任のクラスも持ってないから、特別感はある。でも、だからって特別扱いはしない。その中の誰が、俺にどんな感情を持っていても、俺はなるべく、同じように扱いたいんだ」
「……」
「お前が俺を好きでも、嫌いでも、俺は同じだ。それが俺の答え。納得、いくか?」
一ノ瀬の事を一生懸命考えたことが分かる、まっすぐな視線だった。一ノ瀬は、うなずく。
「じゃあ、俺、もう悩みません」
「そうか」
「俺、先生の事、好きでいます」
「……そうか」
「先生、一対一、やってくださいよ!」
そう言うと、一ノ瀬は急に持っていたボールを宮田に投げた。反射的に受け取った宮田は、自信たっぷりといった顔で笑う。
「本気出すぞ」
「うっす!」
軽くドリブルをすると、宮田は素早く動いた。低い体勢で止めようとする一ノ瀬をフェイクで軽くかわし、その手が触れる前にシュート。軽やかな動作で放ったボールは弧を描いてリングを通り、ネットを揺らす。ボールを取った一ノ瀬が今度は攻撃に回った。何とかシュートは打ったが、ジャンプはほぼ同時。ボールがリングに跳ね返り、リバウンドを取ろうとした一ノ瀬は相手が自分より高い位置でボールを取るのを見ることしかできなかった。着地した一ノ瀬は頭上でボールがリングをくぐるのを見た。
「百年早え。ていうか勝負を挑んだ割に他愛ねえな?」
ふっと自慢げに笑う宮田に、一ノ瀬は舌を出して見せる。
「ちぇ。なんでそんな高く飛べるんすか」
「高くないよ、早いだけ」
「そか……踏み切りが早いんだ」
「そういうこと」
立てた人差し指の先で大きなバスケットボールが回る。それは軽く、とん、と離れ、宮田の右腕を滑り、首の後ろを通って左腕を走り、くるりと回って左手に収まった。
「敵わねえなあ」
一ノ瀬は溜息とともに言ったが、それは嬉しそうな声音だった。
「思ったんだけど」
ふと、宮田が言う。
「自分で言うのもなんだけどさ、お前らにとって、俺ってある意味憧れじゃん?」
「そうっすね。尊敬の的っすよ」
「俺もバスケ始めたころ……中学から始めたんだけどさ、高校の先輩がめっちゃ上手くて、憧れたなあって。お前の好きってのは、それと違うのか?」
「うーん、俺もそうかと思ったんですけどね。ていうか、それもあるんですよ、間違いなく。でも、やっぱ……それだけじゃないみたい、です」
「そっか」
「……気持ち悪くなりました?」
二日前は「そんなことない」と言っていた。けれど、「混乱が収まったら気持ち悪いと思うかもしれない」とも言った。座り込んでいた一ノ瀬は、眉を寄せて宮田を見上げる。
「そうだなあ……。良く分からないな。男に好きだって言われたの初めてだし。……ま、今んとこは平気、かな」
「マジでえ?!」
一ノ瀬ががばっと立ち上がる。
「なんだよ、文句あんのか?」
「や、そうじゃなくて……。俺だったら絶対嫌だって思ったから。……あ、もしかして俺に気を遣ってんすか?!」
「違うって、そうじゃないよ」
腕組みをして考える宮田。一ノ瀬は理解できないというように首を振った。
「先生、それ絶対変だって」
「あのなあ。好きな相手にそういうこと言うか、普通?」
その言い方はあまりに普通で、一ノ瀬は思わず笑い声を上げた。斜め下に向けた視線が宮田のそれとぶつかり、二人とも笑う。
「……俺、好きでいたらいけないって思ってたんす。先生は、男だから。そんなん、変だから。それで、悩んでた。それと……嫌われたくなかったんす。知られたら絶対引くって思った。ていうか、引くでしょ、フツー」
「そうか?」
「だから、先生は変だって」
「う〜ん、まあ、そうかもなあ。俺の場合、やっぱり生徒は恋愛対象にしないって決めてるから、平気なのかもしれないけど」
言ってから、宮田は「しまった」という顔をした。一ノ瀬はそれに気づいたが、もう動じなかった。
「いいんです。生徒じゃなくたって、どうせ、男同士なんだし。どうにもならないっすもん。でも……好きでいていいんだって思ったら嬉しくて。先生が、それで俺の事を嫌いになったり、気持ち悪いって思ったりしないなら、好きでいて、いいんだって。それなら俺、もう悩む事ないんすよ」
「……そ、か」
――なんか吹っ切れたなー。
一ノ瀬は自分の悩みを理解し、またそれを乗り越えたことを自覚した。
「へへ、俺もう毎日ガッコ来ますよ。だって先生の顔、見られるもんな」
「それはそれは光栄です」
仰々しく一礼してみせる宮田に、一ノ瀬はにっこりと笑って見せた。
「じゃ、先生! また明日!」
「は?」
「は? じゃないっすよー」
「ていうか、明日は日曜だ」
「げっ」
「……バカ」
そう言って笑った宮田の顔を、一ノ瀬はずっと忘れる事はなかった。