一ノ瀬くんのリアル 8

「俺が、何した? お前に何か悪いこと、したか?」

「何も……先生は、何もしてません」

「どういう事だ?」

「……」

「ここまで来たら、聞かずには帰れないぞ」

「……マジかよ」

「マジ。なあ話せって。何を言われても驚かないから」

「はっ、嘘だね」

一ノ瀬が鼻で笑う。埒の明かないやり取りの末のこの態度。宮田はかちんと来た。どうしても苛立つ。だがその怒りを何とかこらえて言った。

「じゃあこういうのはどうだ。話してくれるなら、お前の言うこと一つ、何でもきくよ」

「……何でも?」

布団の向こうから、思い詰めた声が聞こえる。宮田の体が緊張してこわばった。

「お、おう。物理的に不可能なこととか、人に迷惑かけることとか、そういうんじゃなければ。あ、後、学校辞めろとかも……」

「何でもって割には条件多いね、先生」

「そりゃ、だってお前……」

「じゃあ、話したら、一つだけ言うこと聞いてくれるんすね」

「ああ」

大きく布団が揺れ、一ノ瀬が振り返った。宮田は唾を飲み込む。が、一ノ瀬は再び布団をかぶった。

「やっぱ駄目だ……言えねえよ」

宮田はもう自分を抑えられなかった。ベッドに膝をつき、布団を剥ぎ取る。

「いい加減にしろ、てめえ!」

強引にこちらへ向けた一ノ瀬の顔は、宮田の予想とはまるで違った。意地を張っているとばかり思っていたが、一ノ瀬は泣き出しそうな顔で宮田を見つめている。

「そんなに俺が嫌いか!?」

「違う……」

「違わないだろ、嫌いなんだろ?!」

無言で唇をかみ締め、宮田の拘束を逃れようとする一ノ瀬。宮田より14cmも高い身長。体も鍛えている。ともすれば腕ごと持っていかれそうだったが、宮田は何とか踏ん張って耐えた。

「逃げるな、一ノ瀬! そんなに俺が嫌いなら……!」

「違う違う違う! ……俺は、先生が……、先生が好きなんだっ!」

止まる時間。何もかもが制止した部屋の中で、一ノ瀬だけが荒い息をして、肩を揺らしている。宮田は頭が真っ白だった。

「……は?」

「だあああ!」

一ノ瀬は力の緩んだ宮田の手を振り払い、布団をかぶった。その足元で立て膝のまま、宮田は凍り付いたように動けずにいる。

「あの、な、一ノ瀬……」

「だからぁ! 先生がいると、バスケに集中出来ないんすよ! ずっと先生のこと、見ちゃうから!」

「ちょ、ちょっと待て、今、俺、頭が混乱中……」

布団の中から、泣きそうな声で一ノ瀬は続ける。

「ずっと……悩んでた。先生は憧れのバスケプレイヤーで、先輩で、先生で、コーチだって思ってんだけど、どうしても……別のこと考えちゃって……。自慢じゃねえけど、俺、わりともてるし、色んな女の子と付き合ってみた。でも、みんな全然違う感じだったんす。吉沢と付き合ってたのも知ってるかもしれないけど、あいつとは本当に上手くいってたんです。少なくとも俺はそう思ってた。でも、吉沢から別れようって言われて。『いっちーには他に好きな人がいるんでしょ』って……。それで俺、自分が先生のこと、好きなんだって、分かっちゃったんです。でも!」

がばっと跳ね起きた一ノ瀬に、宮田は思わず飛びのいた。

「おかしいじゃないっすか! 変態っすか、俺は!? 男なんすよ、先生は!」

「や、知ってるよ……」

戸惑いを隠せない宮田に、一ノ瀬はさらに詰め寄った。

「女の子みたいに可愛いわけじゃねえ。七個も年上の、先生。先輩。コーチ。男! なのに、俺……」

頭を垂れて、一ノ瀬は掠れた声で言う。

「どうしても、先生のこと、想っちゃうんだ……」

「い、一ノ瀬……」

「先生、さっきなんでもするって言いましたよね」

一ノ瀬の声が急に大きくなり、表情が変わった。至近距離まで近づくと、頬を染めているのが分かる。

「お、おい」

「約束、すよね?」

「待て、ちょっと待て」

宮田が後ずさると、ベッドのふちから手がずり落ちた。慌ててバランスを取り、一ノ瀬を見る。すると、先ほどまでの興奮したような表情が消えていくところだった。

「そう、すよね……気持ち悪いっすよね。男に迫られたら、俺だってそうなると思います。ごめん、先生。……すみません」

一ノ瀬はそう言うと、のろのろと体を横たえ、布団を頭までかぶった。宮田はベッドから下り、一ノ瀬の頭のある辺りをじっと見つめる。布団の下から詰まった声が届く。

「俺、やっぱ学校辞めます。好きな人に気持ち悪いって思われたままじゃいらんないっすから……。高校は、どっか別の学校行くんで、心配しないでください。ほんと……すみませんでした」

「一ノ瀬」

「もう、帰って下さいよ……」

「帰るよ。約束を守ってからな」

「はあ?!」

勢い良く起き上がった一ノ瀬の顔に当惑の色がありありと浮かんでいる。

「俺も男だ。お前も男だろ。男同士の約束だ。お前の言うこと一つ、何でも聞く」

「ちょ、先生……マジかよ」

「マジ。生徒に教師の信頼失わせるわけにいかない」

「そういう問題かよ。『何でも』だぜ? 分かってる? 先生、好きな女の子が目の前で『何でも言うこと聞く』って言ってんの、想像できる?」

「ああ。かなり素敵なシチュエーションだな」

「冷静すぎるよ、先生。自分が今その『女の子』なんすよ?」

「だから、分かってるって。でもお前が好きな相手にひどいことするようなやつじゃないってことも分かってるから」

一ノ瀬は大きく口を開けて、にっこりと笑っている宮田を見つめた。目をつぶり、頭を振る。それから笑った。

「面白い人だなあ、先生! ホント、好きっすよ」

「そりゃどうも」

「男に告られて、気持ち悪くないんですか?」

「どうだかなあ。まだ頭が混乱してるだけかもしれない。明日になったら気持ち悪くなるかもよ」

「ひっでえ」

「俺は約束を守る。ほら、何でも言えよ」

改めてそう言われると、一ノ瀬はどう言えばいいのか分からなかった。何かを言おうとしてためらい、何度か言いかけては止めた。だが宮田は一ノ瀬が言うまで待ち、ついに一ノ瀬は小さな声で言った。

「……キス、したい、です」

宮田は無言で髪をかき上げ、小さく息を吐いた。そして一ノ瀬は、宮田が目をつぶるのをじっと見つめていた。

「あんまりすごいの、するなよ」

「せ、先生」

一ノ瀬はベッドから立ち上がり、宮田の前に立つと、その肩を両手で持った。宮田は内心の動揺を悟られまいと、表情を崩さぬよう最大限の努力をし、一ノ瀬は気づかない振りをしていると分からないように最大限の努力をしていた。そして、一ノ瀬の唇がゆっくりと宮田のそれに重なる。

――震えてるのか。

かすかに触れているだけの唇から、一ノ瀬の緊張が伝わる。宮田の右腕が自然と上がり、一ノ瀬の左腕に触れた。その途端、一ノ瀬の体が跳ねた。唇が素早く離れ、宮田が細く目を開けると、眉根を寄せた一ノ瀬の顔が至近距離で見えた。

「先生……っ!」

宮田は一ノ瀬に思い切り抱きしめられ、息が止まった。宮田の体は腕ごと一ノ瀬に捕らわれ、身動きも出来ない。

「好きだ……先生、ごめん……!」

ようやく解放され、止まっていた呼吸が出来るようになったと思った瞬間、再び呼吸が止められる。さっきは触れるかどうかだったが、今度は完全に唇をふさがれている。宮田の腕は自由だったが、一ノ瀬の両腕が宮田の背に回り、抱きすくめられているので身動きできないことに変わりはない。

「んん……っ!」

声を出す隙も与えられない。目の前で白い光が踊る。頭が痺れて、じんじんという音が聞こえる気がする。

――こんなのって……こんなのってあるか……!

宮田はどうしていいか分からなかった。両手で宮田のシャツを掴んで引っ張るくらいしか抵抗できない。長身の一ノ瀬を振りほどくことは出来なかった。一ノ瀬の背中に手が届く。何度か強く叩くと、ようやく我に返ったのか、一ノ瀬が体を離した。二人とも、息が荒い。

「おっ、お前、なあ……」

何と言ったらいいのか。宮田はとにかく息を整え、汗を拭った。

「すんません、でした……」

一ノ瀬の頬は紅潮している。切なそうな視線を宮田に注ぎ、それから慌てて目をそらす。

「一ノ瀬」

「は、はい」

一ノ瀬が不安そうに宮田を見る。宮田はごく小さく、ひきつった笑いを見せた。

「学校、来いよ。部活も、辞めんなよ。な?」

「先生……」

「気持ち悪いとか、思わないから。今はまだ、その、混乱してるから、ちゃんと話せねえけど……そういうことだけで気持ち悪いとか、決めねえよ」

何ともいえない顔で、一ノ瀬は宮田を見つめている。

「じゃあ、今日はこれで帰る。また明日。学校でな。あ、明日は部活休みか。じゃ、土曜な」

放心したような一ノ瀬を残し、宮田は部屋を出た。その心中で、宮田は繰り返し呟いていた。

――なんてキス、しやがる……。

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