「一ノ瀬。私だ、高石だ。ドアを開けてくれないか」
返事はない。だが、一ノ瀬は部屋にいるはずである。
「悩みがあるんだろう、私が聞いてやるからとにかくドアを開けろ。…・・・どうして学校に来ないんだ。え? 理由は何なんだ」
高石の口にするセリフが、宮田には陳腐に聞こえてしょうがない。
――俺が一ノ瀬だったらこれでドアを開けたりはしないな。
「先生、ちょっといいですか」
高石に代わり、宮田がドアの前に立つ。
「一ノ瀬」
中でがたんと音がした。机か椅子が何かにぶつかったような音だ。察するに、驚いて立ち上がったんだろう。宮田が来るのは予想外だったのだろうか。宮田は高石を振り返り、一つ頷いた。
「吉沢と木内が心配してたぞ。部員も、おじいちゃん先生もだ」
「……俺、部活やめるって先生に言ったじゃないっすか。なんでそれ、みんなに言わないんすか」
ドア越しにくぐもったような声がする。
「ちゃんとした退部届けも出ていないのに受理できるか。第一、俺はコーチで、辞めるって言うなら顧問のおじいちゃん先生だろ」
「……」
「部活のこともそうだけど、学校まで休むことはないじゃないか」
ドアのすぐ向こうに一ノ瀬の気配を感じる。だが一ノ瀬は何も言おうとしない。宮田はいらついた。元来、それほど気が長くはない。
「いい加減にしろよ、一ノ瀬。お前が一人で何も言わずに悩んでるんだろ。みんなに迷惑がかかるし、心配もかけてる。それを分かってるのか?」
「宮田くん、落ち着け」
高石が宮田の肩に手をかける。宮田は大きく深呼吸すると、改めて話しかけた。
「何が嫌で部を辞めると言ってるんだ? あんなに練習してたじゃないか。これからは三年がいなくなって、お前たち一年と二年が中心になってチームを作っていくんだ。おじいちゃん先生も、俺も、お前には期待してる。みんなだってそうだ。分かるだろ」
「……」
「一ノ瀬。何が問題なのか、きちんと説明してくれ」
「……先生が……宮田先生がいる限り、部活には行きません」
突然の宣言に、高石は呆気に取られる。宮田はうろたえた。
「な、何でだ? 俺が? 俺が問題なのかよ! 俺が何をしたってんだ」
宮田が声を荒げる。だが返ってきたのは、取り付く島もないといった短い返答だった。
「何がどうでも。これ以上は言えないっす」
「一ノ瀬、お前な……!」
「宮田くん、ちょっと戻ろう。落ち着いて。な!」
高石に抑えられ、宮田は階段へ引き戻される。一ノ瀬に聞こえないだろうところまで来ると、高石はふうっと大きく息を吐き出した。
「……心当たりは?」
「そんな、全然ありませんよ。だから驚いてるんです」
それは本当だった。問題が起きた記憶もない。一ノ瀬に嫌われている意識などなかった。睨まれたことでもあれば、あれか、と思い出せただろう。だが、そういう様子は皆無だった。一年の春から、一ノ瀬は宮田に傾倒していたのだ。小学校のとき、学校見学で見た試合の宮田に憧れてバスケを始めたという話も聞いた。レベルの高いバスケをする宮田には、部員全員が一目置いていたが、その中でも一ノ瀬は特に宮田に忠実だった。
「この間、突然部活を辞めると言ったんです。でも、それもあまりにいきなりで。理由が分かりませんでした」
「で、今こうなっとるわけか。さっぱり分からんな」
「理由は……俺、いや、私なんですよね」
「うむ……」
「今日は自分がとことん話してみます」
「私はいない方が良いかな」
「そう、かも知れないですね」
「よし。じゃあ後は任せる。連絡はしてくれよ」
「はい」
階段を下りていく高石を見送り、宮田は三階へ戻った。ドアの前で何度か呼吸をし、決意を固めるとノックをする。
「一ノ瀬。俺が問題だって言うなら、俺と話そう。高石先生はお帰りになったから」
沈黙が宮田をいら立たせる。だがここでまた怒っては大人気ない。ぐっと飲み込んで、宮田はもう一度ノックした。
「部屋に入れてくれ。きちんと顔を見て話せよ。俺も、腹を割って話す」
「鍵なんてかかってませんから」
部屋から小さな声が聞こえる。さっきはドアの近くにいたようだったが、今は遠くにいるようだ。宮田がドアノブに手をかけると、それは抵抗なく動き、押すとドアはゆっくりと開いた。薄暗い部屋。正面に机があり、向かって左側に本棚と洋服かけがある。机の右側にベッド。その上に布団の塊があった。布団をかぶっているわけだ。
「椅子、借りるぞ」
顔を見せろとは言ったが、まあこのくらいはいいか。部屋に入れただけでも進歩だ。宮田はそう思うことにし、勉強机に付属している椅子に腰掛けた。机には教科書と参考書、それに雑誌や漫画が混ざって積んである。そのほとんどがバスケ関係のものだ。部屋は雑然としているが、あまり物もなく、散らかっているというほどでもない。本棚にCDが多く入っていて、それの中に宮田の趣味と同じものをいくつか見つけることが出来た。ごく普通の男子高校生の部屋。そういう感じだった。
「一ノ瀬。俺がいる限り、部活に来ないって言ったな。そんなに俺が嫌いか」
「先生の顔は見たくないす」
「そんなにか」
「……」
「何でだ?」
無言を貫き通す一ノ瀬。宮田には訳が分からなかった。
「俺は教師だけど、それとこれとは別にして失礼だろ。俺が原因だって言うなら、俺にちゃんと分かるように話せよ」
「嫌っす。どうしてもってんなら、俺、学校も辞める」
「簡単に言うな! いくら義務教育じゃないからって、そんな簡単に」
宮田は思わず大声を上げて立ち上がった。
「簡単じゃねえよ!」
宮田の勢いよりさらに強く、一ノ瀬が布団を取って宮田を睨みつける。その視線に、宮田はたじろいだ。
「俺がどんだけ悩んだか知らねえくせに、先生こそ勝手に決め付けないでくださいよ。俺だって、悩んで悩んで……」
そこまで言うと、一ノ瀬は目をそらし、再び布団をかぶって後ろを向いた。
「もう、いいです。先生には、何も話したくない。分からなくっていいです。俺のことは何も分かってないガキだと思って忘れてください」
一ノ瀬は、完全に拗ねている。宮田は頭をかきむしり、それから特大のため息を吐き出した。