「はい、一ノ瀬です」
低い男性の声がする。一瞬、一ノ瀬かと思った木内は、すぐに父親の方だと思い直した。
「バスケ部で一緒の木内って言います。貴也くんは……」
ほとんど初めてといっていいほど珍しく一ノ瀬の名前を呼んだ木内は、なんとなくぎごちなさを感じながら相手の返答を待った。
「ああ、木内くんか。あいつを心配してくれたのか?」
「あ……はい。ケータイ、いつかけても捕まらないんで……」
「すまんね。最近のあいつはどうもおかしいだろ。うちにもあんまり帰ってこないんだ。今日も出かけてるんだが」
「そうなんですか」
「遊び歩いている風なんだが、学校や部活なんかはちゃんと行ってるんだろうか」
「え、ええ、まあ……」
木内が言い淀んでいると、相手の背後でドアが閉まるような音がした。父親が相手に向かって話しているのが小さく聞こえる。
「なんだお前、もう十時回ってるぞ。また遊んでたのか」
「ほっとけよ!」
一ノ瀬の声。きつい口調だ。
「ったく! お前に電話だ。木内くんから」
静かな時間が数秒流れ、受話器から一ノ瀬の声が流れた。
「俺だ。どしたん?」
「どうしたって、お前さ、親父さんにあんな……」
「いいんだよ、そんなの。ほっとけよ。何の用?」
明らかにいらついている。一ノ瀬らしくない、と木内は思った。
「用ってかさ、ケータイ通じねえじゃん。いっつも留守電ばっか」
「だから、何の用だよ」
「俺が言いたいこと、分かってるくせにとぼけんなよ。なんで部活出てこないんだよ?」
「……わりぃ」
「謝るくらいなら出てこいよ。今日だって先輩らめっちゃ怒ってたぜ。先生とかも心配してるし」
一ノ瀬は黙り込んだ。木内には、もう一つ言わなければならない事がある。どう切り出すか、木内はしばらくためらった。
――いいや、直球だ。
「昨日、吉沢と話したんだけど。あいつ、泣いてたぜ」
「え……」
「ちゃんと話し合って別れたって、言ってたじゃん。なんで泣かしてんだよ」
「お前には関係ないだろ」
一ノ瀬の声は動揺しているようにも聞こえる。
「前だって二股とかやりまくってさ。平気な面で色々言ってたけど、ホントはちゃんとしてないって分かってんだろ。吉沢泣かして、部活休んで。なんでこんな事ばっかしてる? おかしいぜ。お前らしくねえよ」
「……」
「別に俺はさ、偉そうに説教しようとか、そういうつもりはねえよ。お前が何してようと、お前の自由だしさ。だけど、なんか変じゃん、最近のお前。俺に隠してる事とか、実は悩んでるとか……」
「木内」
「な、なんだよ」
「俺、部活やめる」
「は? 突然、何言い出すんだよ」
「こないだ、宮田先生に言ったんだ。知らないのか?」
「先生、なんも言ってなかったぜ……」
「本気にしてねえのかな」
「ちょっと待てよ。本気なのか? 部活やめるってことは、バスケやめるってことかよ?」
「……ああ」
「なんで!」
「理由は言えない」
「俺にも? ずっと一緒にやってきたんじゃん、バスケ! それをやめるってんなら理由くらい言えよ!」
訳が分からない。木内の頭は混乱した。よっぽどの事がある。それだけは分かるが、それよりも自分に言えないということの方が木内にはショックだった。
「なんで言えないんだよ」
「ごめん、木内」
それが最後だった。電話はすぐに切れ、そして一ノ瀬は翌日、学校を休んだ。次の日も。その次の日も。そして、十日が過ぎた。
心配した一ノ瀬のクラス担任、高石は一ノ瀬の父親に電話をかけた。
「ええ……そうですか。ええ、はい、ではまた明日。はい。では……」
高石は白髪が混じり始めた頭をペンでかきながら、戻した受話器に向かって嘆息している。横で聞いていた宮田が心配そうに尋ねる。
「どうでした?」
「父親にも理由は分からないらしい。誰にも会わないし、学校にも行かないと言っているようだ。食事などはたまに取るようだが、相当悩んでるようだな」
「引きこもってるんですか」
「父親ともろくに話をしないらしい。困っていると言っていたよ」
「そう、ですか……」
「明日、お父さんが家におられるらしい。七時ごろお邪魔すると言っておいた。君も一緒に行くか?」
宮田は数日前に木内から相談を受けた事を思い出した。吉沢との話を合わせると、これは部内の問題としか思えない。
「行きます」
一ノ瀬の家は学校から電車で三十分、さらに徒歩で十五分ほどのところにあった。大きな家の多い、いわゆる閑静な住宅街、というやつだ。白い外壁の立派な三階建て。それが一ノ瀬の家だった。
迎えに出た父親はロマンスグレーまであと一歩という感じ。そう言っては失礼だが、腹さえ引っ込んでいれば格好いい部類だろう。母親は一ノ瀬が小学校の頃に亡くなったと聞いた。
「私が仕事で忙しいので、家事はかなりの部分貴也がやってくれています。今は引きこもっているので、私がやっていますがね」
父親の口ぶりからはさして心配はしていない、といった様子が感じられる。
「貴也の部屋は三階です。先生方にはわざわざ来ていただいて申し訳ないんですが、この後も仕事が入っていまして……行かなくてはならないんです。すみません、後はよろしく頼みます。家の鍵はオートロックですから、そのままで構いません」
そう言い置いて、一ノ瀬の父親は家を出て行った。高石と宮田は顔を見合わせ、三階への階段を上る。三階はワンフロアで一部屋らしい。階段を上ってすぐにドアがあった。高石が一つ深呼吸をし、ノックする。