木内は初等部からの内部生徒である。一ノ瀬は中等部からの受験組なので、木内と知り合ったのは中学一年の時ということになる。同じクラスになり、一緒にバスケ部に入ってからというもの、二人は気が合ってよくつるんだ。お互いにバスケ一色の青春だったが、一つ違う点は、一ノ瀬の方が圧倒的にもてる、ということだった。クラスの女子のみではなく、上下の学年でも人気があり、他校の女子にも有名なほどだ。だから木内は一ノ瀬が本気になればいくらでも彼女を作れる、と思っていた。だが一ノ瀬はバスケのことばかり。もったいない、と木内はよく言ったものだ。
――だからってよ……。
一ノ瀬が突然といっていいほど豹変したことに、木内は驚きを隠せなかった。
――なんか変なんだよなあ。一ノ瀬らしくねえよ。
木内はケータイをもてあそびながら、思案を巡らせた。しばらくしてダイヤルしたのは、吉沢だった。吉沢も木内と同じく内部組。木内とはもう十年目の付き合いだ。だから分かることもある。
――多分、あいつは一ノ瀬が好きだ。
数回のコールの後、聞きなれた吉沢の声がした。
「きうっち?」
「よお。悪いな、遅くに。今、だいじょぶ?」
「うん。部屋でマンガ読んでたよー。どしたの?」
「あのさあ、一ノ瀬のことなんだけど……」
電話の向こうで、吉沢が黙った。無言の中に、緊張感が伝わる。
「こないださ、部活の後で女バスの先輩が来て、一ノ瀬が二股かけてるって詰め寄ってさ。あいつもそれ認めて、その場で別れるって言ったんだ」
「聞いたよ。そんで二股の相手が中等部の子だったんでしょ? その子ともすぐ別れて、新しい彼女作ったって、いっちーが言ってたもん」
吉沢の声は暗い。木内は直感的に、自分の予想が当たっていると思った。
「知ってたか」
「二組のさよちゃんがコクったんだって。いっちーがオッケーしてくれたって喜んでた」
「え? 一ノ瀬は他校の子だって言ってたぜ」
「うそぉ……」
「あいつ、また二股かけてんのかあ?!」
「いっちー……どうしちゃったのかな。急に、変だよね」
吉沢も理由が分からないのか。木内は小さく息を吐いた。
「別に一ノ瀬が何してても、俺はいいんだけどさ。……お前、嫌だろ」
「えっ……な、なんで、私が? 別に、ねえ、いいよ、何しててもさ……」
「一ノ瀬のこと好きなんだろ」
「ちょっ……ちょっと、待ってよ、なんで? ……きうっち、知ってたの?」
高等部にあがった頃から、吉沢が以前と違う様子になったのは気づいていた。そうかなと思って観察していればすぐに分かる。木内は「やっぱりな」と納得した。
「長い付き合いだしなー。なんとなくそうかなって思ってさ。なあ、一ノ瀬に好きだって言ったら?」
「ええっ?! で、でも」
「今の一ノ瀬、絶対変じゃん。女の子、とっかえひっかえだぜ? なんか、好きでもないのに手当たり次第って感じじゃん? もしかすると自覚ないのかも知れないけど」
「……そう、だね」
「俺が言うのも変かもしんないけど、吉沢だったらお似合いだと思うんだよな。ちゃんと一ノ瀬をコントロールできそう」
冗談めかして言うと、吉沢が電話口でくすくす笑った。
「きうっちって、何気に失礼じゃん」
「そうか?」
「でも、うん、そうだね。私、言ってみようかな」
「上手くいくといいな」
「ありがと。きうっちも早く彼女作りなよ?」
「うるせー、余計なお世話でい!」
「あはは! じゃあ、また学校でね」
「おう、そんじゃな」
通話終了のボタンを押し、木内は肩を下ろした。これで、一ノ瀬が少し落ち着いてくれればいいけど。そう思って、木内は吉沢の家の方角に向かって手を合わせた。
――頼むぜ、吉沢。
二学期は淡々と過ぎて行った。夏が去り、短い秋が来る。空には細くたなびく雲。太陽の柔らかな光。グラウンドや体育館から絶え間なく運動部の掛け声が響く。
一ノ瀬は、部活に来ていた。待っていたらしい吉沢と帰ることも多い。どうやら二人は付き合い始めたらしい。表情も明るくなった。女子との派手な噂も落ち着いたようだ。宮田やおじいちゃん先生を含め、部員たちもみなほっとしていた。
そんなある朝。
宮田は早朝練習の監督をするために体育館に来ていた。たまたま早くに目が覚めて、体育館に着いたのは練習が始まる三十分も前だった。部員たちもそろそろ来るかもしれないが、コートにはまだ誰もいない。宮田は一人、ボールを弄んでいた。
と、重い金属音がした。宮田が扉の方を見ると、一ノ瀬が体育館に入ってきたところだった。
「おっ、一ノ瀬」
「……あ、先生。一人ですか? 早いすね」
「なんか目が覚めちゃってさ。……そうだ、一ノ瀬。まだちょっと時間あるし、ワンゲームどうだ?」
「俺なんか、先生の相手になりませんよ」
一ノ瀬は自嘲気味に笑って右手を振る。だが一瞬、その目が揺らいだような気がした。一ノ瀬は扉に向き直り、何事かを呟いている。宮田は一ノ瀬に近づき、その背中に軽くボールを当てた。
「つれないなあ。たまには相手してくれよ」
背を向けたまま黙っている一ノ瀬。宮田は扉と一ノ瀬の間にするりと入り込み、15cmほど上にある顔を見上げた。
「また背が伸びたんじゃないか? いいなあ、まだ成長期か」
硬い表情。宮田の軽口にも反応せず、その顔を凝視している。
「どうした」
「……先生」
「ん?」
一ノ瀬の真剣な顔に思わず見入る宮田。と、一ノ瀬は我に返った様子で首を振った。
「先生、俺、バスケやめます。今までありがとうございました」
「おっ、おい! 一ノ瀬!」
慌てたように一礼すると、宮田を振り払うようにして、一ノ瀬は扉を開けて出て行く。逃げるように。苦悩に歪んだ顔で。
――何なんだ、突然。
一ノ瀬を引き留めるゆとりもないまま、歩いてくる数名の部員をぼーっと眺めながら、宮田は謎に包まれたままでいた。