そこそこの成績を出せた夏の大会。それが終わると本格的な夏が来る。三年生たちは部活に参加してはいるが、一、二年を育てるのがその活動のメインになってくる。蝉たちの気が狂ったような鳴き声の中、バスケ部の面々は学校での合宿で汗を流していた。
「よし、じゃあ今日はここまでだ!」
「したーっ!」
ありがとうございました、と聞こえないほど早口で言うのが慣例となっている終りの挨拶。それを済ませると、生徒たちはそれぞれに「あっちー」「マジ疲れた」などと口々に言いながら体育館を去っていく。
「先生」
話しかけてきたのは一年の木内と一ノ瀬。息を切らし、顔には汗が光っている。
「どした。食事まで休憩だろ。シャワーでも浴びてこいよ」
「俺ら、居残りしていいっすか」
主将のセンター谷中、副主将でフォワードの三田、それにガードの田村。三年の三人は優秀な選手だ。だが、二年は人数も少なく、目立って伸びそうな選手は――宮田が短い期間で見た限りでは――いない。一年の二人には戦力として期待できる。その二人が居残りを申し出たのだ。宮田はそのやる気が嬉しかった。
「食事までやるつもりか。体壊すぞ」
「余裕っす」
木内がずれたバンドを直し、髪をあげて止める。木内は宮田と同じタイプの選手だ。高さや力より機動力を駆使する。二年のガードは弱い。三年の田村の良い後継者になるだろう。
「俺も」
額の汗を拭った一ノ瀬は、木内と違って身長がある。タイプとしては、オールラウンダーとでも言えばいいだろうか。足も速く、シュートも正確だ。フォワード向きだが、どのポジションも安心して任せられる。強いて言えばどれも一流ではないというところが弱点か。
「二人とも、やる気だなあ。うん、偉い。……で、何をしたい?」
「俺は夏までにもっと走れるよーになりたいっす」
「俺はシュートです。精度を上げたいんで」
木内も一ノ瀬も意気込んでいる。宮田の口端に笑みが浮かんだ。
「よし、分かった。じゃあ木内はダッシュをやろう。俺が笛を吹いてやるよ。終わったら、ストップアンドダッシュな」
「げっ!」
「ただ走るだけじゃつまらないだろ。瞬発力を鍛えなくちゃな。それと一ノ瀬、お前はシュートだ」
「はい」
「苦手な角度は……こっからだろ」
ボールが大量に入ったかごを引っ張り、宮田はゴール近くに移動した。一ノ瀬が頷きながらついてくる。
「じゃ、ひたすらここをやろう。俺がいいって言うまで」
「はい!」
一ノ瀬は憧れの先輩でもある宮田を全面的に信頼していた。いつもどおり歯切れのいい返事をすると、早速シュートを打ち始める。
「いい返事だ、一ノ瀬。……じゃあ木内、いくぞ」
木内のところへ戻り、宮田は笛を軽くくわえた。高く鋭い笛の音が体育館に響く。
笛の音が木内の足を動かす。木内はひたすら走った。二十本のダッシュが終わると、今度はストップアンドダッシュ。ダッシュと同じように笛で走り出し、次の笛で止まり、瞬時に逆方向に走り出す。さらにもう一度同じようにして方向を変え、今度はゴールまでダッシュ。これを繰り返す。やがて木内の顔は歪み、開いた口から激しい息が漏れるようになった。止まり損ねて足を滑らせると宮田の鋭い声が飛ぶ。
「腰が高い! きちっと落とさないからバランス崩すんだ。おい、疲れたのか? まだまだ残ってるぞ」
「ういっす……!」
背後で、ボールがリングにぶつかる音。ネットを揺らす音はしない。徐々に、ゴールを外す回数が増えている。宮田が振り返ると、一ノ瀬がその右腕を伸ばし、ボールを投げるのが目に入った。ネットは揺れない。一ノ瀬の眉間に皺が寄っている。
「ちっ」
「落ち着け、一ノ瀬。フォームが乱れてるぞ」
「分かってますよ!」
口調も荒く、苛々しているのが手に取るように分かる。
――あれじゃ入らないな。
宮田は心の中で呟き、木内に向き直った。
「もう少しだ、頑張れ」
木内には何度も声をかけている宮田である。対して一ノ瀬はひたすら一人でシュートを打ち続けている。一ノ瀬は指導者である宮田が何もアドバイスしてくれないのを不満に思っているだろう。宮田はそれを分かって、あえて一ノ瀬を放置していた。
やがて、木内に限界が来た。これ以上は無理と見て、休憩するように言うと、木内はすぐにその場に転がった。胸が大きく上下し、荒い息が繰り返される。
一ノ瀬はゴール下に転がっているボールを集めていた。それを手伝い、二人でかごをいっぱいにすると、一ノ瀬は再び位置につき、シュートを再開した。ボール集めをした事で少し気分を変えたつもりでいた一ノ瀬だったが、五本連続で失敗。
「……きしょう!」
しゃがみこんで顔を覆う。宮田がボールを一つ手に取り、素早い動作でシュートした。ボールはリングに触れることなくネットを揺らす。
「一ノ瀬。どんな時も冷静でなきゃ入らないよ。苛々して集中力を乱したら、フォームも歪む」
無言で唇を噛む一ノ瀬。
「ずっと一人でやってると余計な事ばっかり考えるし、何より疲れてくると集中力は切れるよな。そういう時でも、体が自動で動くくらいまでやらなきゃ」
「先生は、疲れてないから入るんすよ」
一ノ瀬が仏頂面で言う。宮田は肩をすくめた。
「そりゃあな。俺だって神様じゃないから、疲れりゃ入らないよ」
もう一度シュート。弧を描いて飛んだボールは、リングの中央に吸い込まれていく。
「精度を上げたいんなら、繰り返して練習するんだ。体に覚えこませる。疲れても、苛々しても、入るようにな」
「……」
「一ノ瀬、頑張れよ」
宮田は励ますように笑い、少し高い位置にある肩を叩いた。宮田より十センチ以上高い一ノ瀬だが、やはりまだ十六歳。悔しそうなその顔は幼い子供のようにも見える。宮田は自分が高校だった頃と重ね、一ノ瀬を眩しそうに見つめた。
「頑張ります」
一ノ瀬は宮田を見つめ返し、力強く頷いた。
夏の大会は初戦突破が目標だった。だが、大方の予想を裏切り、彼らはベストエイトまでいった。顧問のおじいちゃん先生は宮田の指導が良かったと褒めちぎり、宮田は照れくさく思いながらも嬉しさを隠せなかった。合宿でも彼らは気を抜かず、思い切り練習に打ち込んだ。チームとしての団結力も強まった。このチームは強くなる。順調だ。宮田はそう思っていた。
――だが。
二学期が始まってしばらくした頃。宮田は赴任以降初めて、問題に直面することになった。
「冗談じゃないわよ! 馬鹿にしないで!」
甲高い声で怒りを顕にしているのは、女子バスケ部三年の神田だった。男子バスケ部の練習が終わったのを見計らったのか、突然やってきて一ノ瀬にかみついたのである。曰く、中等部の後輩女子と自分の二股を許せないと言う。バスケ部の面々は突然の事に声も出ない。一ノ瀬の近くにいた木内が囁いている。
「一ノ瀬、マジかよ」
「ああ、マジ」
一ノ瀬は冷たいとも取れる顔でさらっと言ってのけた。部員たちからどよめきが上がる。神田の目に涙が浮かんだ。
「なんでそんな事すんの?!」
「俺の勝手じゃん。結婚してりゃ浮気はいけないかもしんないけど、恋愛は自由でしょ」
「……!」
神田は思わず手を振り上げた。宮田がその手を掴む。
「先生!? 放してよっ!」
「教師の出る幕じゃないかもしれないが、手を上げる事はないだろ。それに、こういうところで話すことじゃないだろ。二人でゆっくり話し合って……」
「いいですよ、先生。もう終るから」
その言葉にみなが思わず振り向くと、一ノ瀬はタオルを持って部室へと向かっていた。
「別れようよ、センパイ。それでオシマイ。じゃ」
怒りと悲しみが交錯し、神田は泣き崩れた。それを支え、宮田は立ち去る一ノ瀬をなんとも言えない気持ちで見送った。木内を始め、部員たちも動揺している。首をかしげたり、ひそひそと何かを言い交わしたりしていた。
「神田」
「……ひどいよ。信じらんない!」
言うなり神田は走り出し、そのまま姿を消した。
この事件は一ノ瀬の株を少なからず落とし、部員たちは口を揃えて一ノ瀬を責めた。
「お前けっこうひどい奴だったんだな。結局後輩のコも振ったんだって?」
「いいだろ、俺の勝手だよ」
「神田先輩、泣いてるってよ?」
「しょうがねえよ。もう俺が慰める段階じゃないし」
一ノ瀬は少し伸びた髪をかき上げた。その仕草がまた気障ったらしい。そばにいた三年がいらついたのか、意地悪く言う。
「んなこと言ってっとモテなくなるぜ」
「もう新しいカノジョいますから、俺」
「ええっ!?」
「今度はモメないよう、他校のコっすから。先輩らに迷惑はかけないっすよ」
呆れ果てて声も出ない一同に、一ノ瀬はにっこりと笑いかけた。
「さ、練習しよーぜ!」